列王記講解

23.列王記下6:8-7:20『アラム軍の敗退』

ここには二つのアラムとの戦いが記されていますが、そのいずれも正確な年代はわかりません。

最初の戦いは、8-23節です。このとき攻めてきたアラムの王の名が記されていません。この戦いは、アラムが国境を越えて度々侵略してきた時のことで、全面戦争にまで至らない地方レベルで展開されたものと思われます。

イスラエルの王は、この度々繰り返されるアラムの侵略行為に頭を悩ましていました。それゆえ家臣を集め、対応を協議し、攻めてきそうなところを予測し、そこに陣を張って侵略者を撃退しようとしていました。

しかしエリシャが使いを遣わして、その陣営を作るためにイスラエルが通ろうとしている道には、既にアラム軍が下ってきているので、そこを通らないようにと度々警告を与えました。この警告を聞き、王はエリシャが言った場所だけを警戒したので、アラムの侵略をいつも阻止することが出来たといわれています。

この物語は、エリシャの預言者として際立った先見性を持っていることを明らかにしています。エリシャはその先を見る透視能力によって、イスラエルの敵軍の攻略を失敗させる重要な役割を担いました。

アラム王は、いつも攻め上る道を見破られていましたので、味方の誰かが敵であるイスラエルに内通していると考え、荒れ狂い、家臣を呼びつけ内通している者を探そうとしましたが、家臣の一人が、それはイスラエルの預言者の仕業で、寝室で話す言葉までイスラエルの王に告げられている、と告げました。これを聞いたアラムの王は、その預言者がどこにいるか家臣に探させ、エリシャがドタンにいると聞き、大軍をドタンに遣わし、町を完全に包囲したといわれています。

ドタンはサマリアの北約15キロメートルあります。戦略的に重要な要衝にありました。このアラム軍によるドタンの包囲は、夜のうちになされました。エリシャに仕える従者が朝早く起きて外を見るとアラムの軍馬や戦車にすっかり包囲されていたので、恐れを抱いてエリシャにそれを報告しました。彼らの目は、敵を支配しこれに勝利することの出来る主を見ることが出来ず、現実に包囲しているアラムの大軍しか目に入りませんでした。

しかしエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った、といわれています。

人は危機に直面すると、現実に襲ってくる敵の脅威にばかり気を取られ、その現実が主に守られていることを見ることが出来なくなります。いつも主に対して開かれた目をもたないと、私たちの信仰は萎えてしまい、「恐れ」に包まれます。それ故、主にある真の現実に目が開かれる必要があります。そのようになるよう祈ることが必要です。それ故、エリシャは、彼らのために祈りました。

主が彼の目を開かれると、「火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。」といわれています。この光景は、かつてエリシャがエリヤの昇天に際し見たものと同じです(列王下2:12)。エリシャにおいて同じ光景が見られると言うことは、エリシャはエリヤに等しい、否、彼の二倍の霊を受け継ぐ真の預言者であることを示す出来事として、この事実が報告されています。

エリシャは、攻め下ってくるアラム軍兵士たちの目をくらませるよう主に祈ると、主はそのようにされ、エリシャは、目がくらまされている彼らをサマリアの町に導きました。そしてアラムの兵士たちは難無く、イスラエルの王の手に捕らえられることになりました。イスラエルの王は、エリシャに向かって、彼らを「打ち殺しましょうか」と尋ねます。それは戦いが聖絶の命令の下に行われたものであれば、妥当します。しかしその戦いはそのような性質を有するものではありませんので、エリシャは打ち殺してはならないと告げます。エリシャはこれら戦争捕虜を寛大に扱い、恩義の絆を彼らとの間で結び、将来の侵略を未然に防ぎ、平和な関係を構築すべきことを王に告げています。王はエリシャの勧告に従い、盛大な宴会を催し、捕虜たちを主人のもとへ帰しました。以来、アラムはイスラエルに二度と攻めてこなかったと23節に言われています。これはエリシャの預言の正しさを示すものとして報告されています。

第二のアラムによる侵略は、王ベン・ハダドによる正式な招集軍によるサマリア包囲です。ベン・ハダドという名を持つ王は三名います。ここに登場するのはベン・ハダド三世だと思われます。それは丁度サマリアが大飢饉に見舞われていたときであると報告されています。そのため、「ろばの頭一つが銀八十シェケル(1シェケルは11.5グラム)、鳩の糞(恐らく「いなご豆」のこと)四分の一カブが五シェケルで売られる」ほど物価が高騰したと言われています。この飢饉はエリシャが預言した主による7年の飢饉(8:1)のことかもしれません。

飢饉に戦争の追い討ちをかけ、物価が高騰しますと、貧しい者は本当に食べる物がなくなります。戦争で篭城して食べる物に窮すると、ここに記されているように女たちは自分がお腹をいためて産んだ子さえ、鍋で煮て食べることがしばしば行われました(申命記28:53、エゼキエル5:10)。戦争と飢饉の悲惨さは、食べる物がなくなるということ以上に、人間の心が失われるということです。この女たちの王への訴えは、公平な裁きを求めるものであっても、その訴え自体が、既に正常な判断を失っています。

王はこの話を聞き、嘆きを表す行為をし、この国が包囲される事態に、国の罪に対する神の裁きを見ています。それゆえ王は、そうした結果に対する希望を全く見失ってしまいました。そして王は、その事態を引き起こしたのを、神の代理人であるエリシャのうちに見ていました。そうであるのに、エリシャは何もそれを防ぐ手立てをしていないとみなし、エリシャに対する報復の誓いをしています。

「シャファトの子エリシャの首が今日も彼についているなら、神が幾重にもわたしを罰してくださるように。」と誓う王は、真の神である主に対してそれを行ったのでしょうか。

これは本当に主を信頼し、主の御心に生きていない、王の倒錯した信仰の姿を示しています。ここでもエリシャは、王の心と動きを察知する、真の預言者が持つ先見性を示しています。王の使者はエリシャに、「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何を期待できるのか。」(6:33)という王の言葉を伝えますが、エリシャは、「主の言葉を聞きなさい」といって、彼に主の裁きを告げます。

エリシャが告げる主の言葉は、「『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」というものです。それは、アラムが逃げるように撤退して、食料などを残していくので、物価が安くなり、明日になれば生活が楽になるというものです。しかし、王の介添えをしていた侍従は、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」と答え、エリシャの預言が実現することは決してありえないと語っています。これに対してさらにエリシャは、「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」と彼に告げて、主による解放の喜びに与ることなく死ぬことを預言しました。

飢饉と戦争による悲惨さは、あらゆる層の人々に及びましたが、とりわけ罪人と言われる人や、重い病のある人は、同じく罪人と等しい者とみなされましたので、そうした人々にも及びました。7章4節以下には、城門の入り口に重い皮膚病である4人の人が、死を覚悟してアラムの陣営に投降する相談をしていることが記されています。彼らはいつもそこで物乞いをしていたのだと思われますが、彼らに食べる物を与える者が誰もいないほど、この国を襲う飢饉は激しく大きかったのでしょう。座して死の日が来るのを待つより、敵陣に行って決死の覚悟で活路を見出そうと言うのです。

しかし人の目には見えなくても、事態は、主にあって既に転換がなされていました。

「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、『見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ』と言い合い、夕暮れに立って逃げ去りました。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。」(7:6-7)といわれています。

このため、投降覚悟で行った、重い皮膚病を患っている四名の人たちは、多くの金銀財宝、衣服や食べ物などを手に入れることが出来ました。彼らはさんざんそれらの物を物色しましたが、我に帰り、主にある同胞のことに思いをやります。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」(7:9)といって、王家の人々に、アラムの兵士たちが、何もかも投げ捨てて、逃げ出した事実を伝えました。

王家の人々から顧みられず、病に苦しみ、罪人としてのレッテルを貼られ、人々からも見捨てられるような生き方をしていた彼らが、救いのグッド・ニュースを伝える使者となった事は大きな皮肉です。主の救いの恩恵性、それによる立場の逆転がここに見られます。王は絶望状態でこの知らせを聞きました。その真実を疑い、軍隊を遣わし、確かめさせています。

しかしそれは紛れもない事実であることが判り、民はアラムの陣営に行き、略奪を欲しいままになし、エリシャが主の言葉として語ったことがそのまま成就したことが報告されています。

真の預言者の言葉が必ず成就することは、申命記18:21-22に明らかにされています。「その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。」(申命18:22)

エリシャの言葉通り実現したことは、彼が真の主の預言者であることを証する出来事です。エリシャの言葉を信じなかった王の侍従の死は、預言の真実の恐るべき面が現れています。しかし、これを良い警告として聞く事が大切です。主の言葉に真剣に耳を傾けて聞けない者は、そこで霊的には死んでいるということです。神がそれでもなおしばらく人を生かされるのは、悔い改めのチャンスを忍耐して与えてくださっているからです。しかし最後まで悔い改めないなら、この王の侍従のように死が待っていることを覚え、真の悔い改めを表し、喜びの日々への歩みへと、主にあって転換をはかることができる者となることが大切です。

旧約聖書講解