ゼファニヤ書講解

3.ゼファニヤ書3章1-5節『エルサレムの罪と贖い』

3章1-5節は、ゼファニヤ自身による預言であり、内容的には1章とほぼ同じ主題が扱われています。即ち、エルサレムに下されるべき審判の理由が述べられています。

1-2節は、内容的に1章とほぼ同じエルサレムに下される裁きについての理由が述べられています。1節の「災いだ」は、「ああ」という裁きに関する預言や弔問の歌の中でよくつかわれる感嘆詞が用いられています。預言書の中で主に非難されるのは、ここに列挙されているような「反逆」、「汚れ」、「暴力」の他に「かたくなさ」、「不信」、「不敬虔」などがあります。エルサレムは神に対する「反逆」、「汚れ」、「暴力」に満ちていました。それはまさに神の意志に対する「不誠実」として、非難されるべきものでありました。具体的には、社会的に弱い立場にある人々を、暴力的にあしらい、法をねじ曲げて取り扱うことの中に表れていました。エレミヤは、エルサレムに対する次のような非難の言葉を述べています。

まことに、万軍の主はこう言われる。
「木を切り、土を盛り
エルサレムに対して攻城の土塁を築け。
彼女は罰せられるべき都
その中には抑圧があるのみ。
泉の水が湧くように
彼女の悪は湧き出る。
不法と暴力の叫びが聞こえてくる。
病と傷は、常にわたしの前にある。
エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。
さもないと、わたしはお前を見捨て
荒れ果てて人の住まない地とする。」
(エレミヤ書6章6-8節)

エルサレムの神に対する「反逆」、「汚れ」、「暴力」は、ゼファニヤの時代もエレミヤの時代も変わらない状況にありました。そこに神の審判を免れえない罪の問題がありました。

エルサレムのその罪の根本的な原因は、「神の言葉を聞かず、戒めを受け入れない」(2節)ことにありました。この点に関しても、エレミヤの次の言葉を覚える必要があります。

主よ、御目は
真実を求めておられるではありませんか。
彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず
彼らを打ちのめされても
彼らは懲らしめを受け入れず
その顔を岩よりも固くして
立ち帰ることを拒みました。
(エレミヤ書5章3節)

エルサレムの政治、宗教のいずれの指導者も、主を信頼して、悔い改めを表さず、「神に近づこうとしない」現実が明らかにされています。「神に近づく」ことは礼拝を意味します。彼らは礼拝を守っていたのです。しかし、それは、主なるヤハウエのみに信頼を向ける礼拝ではなく、異教の神々を信頼する礼拝が行われていました。政治的指導者だけでなく、祭司や預言者という宗教的指導者も、真に神の声を聞く人々ではなかったのです。ここに、深刻な罪の現実がありました。

神の声を聞かない指導者は、神の言葉に従う政治や法秩序を築くことができません。3節に政治司法に関わる指導者たちの暴虐ぶりを、「吠えたける獅子」、「狼」として語られています。民を守るはずのこれら国の高い地位にある役職を担う者が、強欲な搾取者に変貌した姿を述べるのに、これらの動物にたとえて語られています。「獅子(ライオン)」は、強欲と残忍性を象徴しています(ミカ2:2,3:11)。

「裁判官」もその堕落ぶりが非難されています。「夕暮れ」は、次行の「朝」と対応し、夜行性の狼が空腹で一番すさんでいる状態を表しています。「朝になる前に食らい尽くして何も残さない」ほど貧しき民を蹂躙していく様が、実にリアルに表現されています。法の番人であるべき裁判官がこのような状態ですから、民は安心して不法に立ち向かい、正義のために法廷に訴えることさえできない無秩序な状態がそこにありました。

では、霊的に指導者である預言者と祭司はどうであったかと言うと、彼らもまたあてにできない状態にありました。預言者たちは、その職権を乱用し、贈り物に左右される「きまぐれで欺く者」として行動していました。

「祭司たちは、聖なるものを汚し、律法を破る」といわれています。「聖なるもの」と「律法」に関しての強い要求は、ユダヤ教の伝統的な敬虔を表す中心的概念でありました。「律法を破る」祭司たちの行為は、特に彼らが有力者に有利に、貧しい者には不利に法を解釈して教えたことなどを指す、という解釈もあります。

エルサレムにおける政治的指導者も、宗教的指導者も、絶望的なほど堕落していましたが、この都を支配し、この国を支配しておられる主なる神ヤハウエが共におられます。ヤハウエは、エルサレムの腐敗した支配者たちの中にあって、いつも正しく、不正を行われることがありません。主なるヤハウエの正しさは、捕囚時代以前においても存在していましたが、誠に希薄な状況でありました。

しかし、それは、主の無力ではなく、主の忍耐の時を示すものでありました。

「朝」は法廷が開かれる時でありました(エレミヤ21:12)。神殿では、毎朝と夕方の決められた時に、病人、訴えられた人、困難にある人などのための祈り、いけにえの礼拝が祭司によって捧げられていました。その祭司たちが堕落し不正を行っていても、主なるヤハウエは「決して不正は行わない」と言われています。主が「朝毎に裁きを与え、それを光とし、誤りをなさることはない。」という終末的ない主の救いをこの時代の民はまだ知りません。しかし、どんな嘆かわしい不正が行われ、不義に満ちた時代に生きねばならなくても、主の約束の下に主の民が立つ時、希望を見出し、平安を見出すことができます。時代が悪いからこそ、主により頼み、信仰に生きることが大切です。ゼファニヤは、その信仰に立ち帰るようにわたしたちに対しても語りかけています。

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