ホセア書講解

14.ホセア書6章1-6節『わたしが喜ぶのは愛、神を知ること』

6章1-6節は、5章8-15節と同じ状況の中で語られている。即ち、北の強国アッシリアの脅威におびえるパレスチナの小国が、同盟によってこれに対抗しようとしたが、ユダはこれに加わらず、アッシリアに助けを求める。そのような状況の中で、シリア・エフライム戦争(前733年)が勃発する。結果は、イスラエルにとって惨澹たるものであった。しかし、その悲惨の原因は、神ではなく政治的な力によって切り抜けようとする不信仰にあった。他者に助けを求めることで神を軽視する不信仰を、神は裁き、神は「エフライムに対して獅子となり…引き裂いて過ぎ行く」(5:14)ものとなり、「立ち去る」(5:15)と言われる。しかし、その期間は、「彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」(5:15)といわれている。神の審きの目的は、裁き絶滅させることにあるのでなく、民が悔い改めて恵みに与かることにあった。

1-3節の詩は、恐らく、そのような悔い改めの祭りのための、一種の「預言的礼拝式文」であったと思われる。しかし、この箇所が、預言者ホセアによる言葉であったかどうかは疑問がある。この悔い改めに現されるある種の浅薄さは、バアル宗教に見られる救済観と大差のない民の理解から来ている可能性を否定できない。4-6節の民の悔い改めに対する神の不同意は、そのことを示している。

ホセアの悔い改めの呼びかけが、如何に真実なものであったとしても、民の受け止め方は違っていた。ホセアの呼びかけは、その違いを暗示させる言葉を用いたと解することもできる。一応この立場から解釈していきたい。

1節の悔い改めの呼びかけに見られる「主は引き裂かれたが」という言葉は、明らかに5章14節の「わたしは引き裂いて過ぎ行き」というヤーウェの言葉を意識してのものである。ホセアは、民が自らの罪を認めて、ヤーウェのもとに立ち帰ろうとする、悔い改めの意思のあること、その真面目さを否定しない。人々はヤーウェに委ね、ヤーウェだけが神であり、滅びも救いも、審きも恵みもひたすらその御手にあることを認めている。

苦難と絶望の中で呼びかける、預言者の悔い改めへの呼びかけの説教の影響力は、失われてはいなかった。しかし、三日目の復活の希望を語る2節の言葉は、明らかに死んで再生するタンムズ(植物神)の祭儀から借りてきた概念である。タンムズ神話というのは、メソポタミアのシュメールに端を発するといわれるドゥムジ神話から由来しているといわれる。パレスチナの気候は、灼熱の夏と雨季の冬の二つの季節があるのみである。イスラエルでは、5-11月近くまで雨は一滴も降らない。雨期に入るとあるときはパラパラ、あるときは、ザッーと降ってはまたすぐ止む。そして再び、青空と強い太陽の光。それを繰り返していくうちに、茶褐色の荒れ野が、いつのまにか小さな緑の草に覆われていく。5月に入ると、季節は夏に変わる。雨期から乾期への移行は、南から吹いてくる一陣の熱風で、それまで美しく咲き誇っていたアネモネも、一日で消えてしまう。タンムズ神話による祭儀は、その生命のはかなさときまって蘇る命を、タンムズ神の死と再生の信仰によって守られるものとされている。池田裕は、そのような信仰が、イスラエルの中にも影響を与え生きていたことを「古代オリエントの文学と旧約聖書」という講演で述べている(特に、エゼキエル書8:14)。

2節の三日目の復活の思想を、古代教父テリトリアヌスは、キリストの復活として解したが、このところはタンムズ信仰との関係で理解していく方が、4-6節のヤーウェの言葉の鋭さを理解する上で正しい。

「我々は主を知ろう」と民は言うが、ホセアの言葉は未だ聞かれていない。ここでも彼らの期待は、ヤーウェの名を呼び、ヤーウェに対するものとして示されてはいるが、彼らが求めているのは、バアル礼拝において求めたものと本質において変わりない、利己的な利益の追求であった。夏が終り秋に雨が降り、大地を柔らかくして耕作が開始される。そして、収穫の刈り入れを前にした三月と四月に、軽い雨が降る。それは、長い乾燥した夏が始まる前に、穀物を豊作にする働きをもつ雨であるゆえに重要である。この適度な雨が降らないと、イナゴの異常発生で農作物を食い荒らしたりして、飢饉をもたらしかねない。カナンの宗教において、雨の制御は、バアルの特別な大権であり、技能であると理解されていた。人々はバアルに期待するのと同じ態度で、それをヤーウェに対して求めていた。

「我々は主を知ろう」と求めた人々の態度が、その悔い改めの態度の真面目さに比べ、表面的で真のヤーウェを求める態度からは縁遠い真実に欠くものであったかは、その後の言葉が示している。「主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる」という言葉は、ホセアの言葉であれば、主による速やかな救いであり、豊かな救いをあらわすが、それが民の浅薄な利己的な利益を求める期待である限り、ヤーウェのバアル化を意図した期待となる。ホセアはこの彼らの期待を見破り、彼らの期待する本当の姿を明らかにする。

その偽りの期待に対する神の答えは、4節において明らかにされる。「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか」というヤーウェの問いの背後には、民の中に兆している良き意思と悔い改めの意志とをたしかに認めながらも、同時に、それが神の御心に沿った悔い改めでないために、ヤーウェは助けることができない、という無念さが滲み出ている。

「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」と、イスラエルの浅薄な持続しない悔い改めの信仰が、朝の空に出てはいるが、日が昇るとすぐ消えてしまう「朝露」に喩えられている。危機意識は強く持っているが、そして、それが真剣な悔い改めの気分を呼び起こすが、その悔い改めが神に対する新しい生活(真に御言葉に聞き従う)態度として持続的に保たせるほど、神の実在(リアリティー)の心象が強くなく、十分でもない。

危難のときの悔い改めの祭儀によって呼び覚まされた悔い改めの気分は、結局のところ、民をして真の悔い改めの信仰と、真の事態を見る目を見誤らせることになった。神の審きを真剣に受け止め、かつ審きにおいて恵み給う神の実在(リアリティー)についての消し難い心象を抱く真の悔い改めのみが、人間を根底から永続的に、神の本質に応じようとする態度へと鍛え直すことができる。民に欠けていたのは、この悔い改めであった。真剣に神の審きに服そうとする、審きにおいて恵む神に信頼し、この神を本当に知ろうとする意思は、神の御心である神の言葉に聞き従う信仰の応答の態度以外で示しえない。彼らは、人間的な努力の段階で悔い改めを理解し、その段階で悔い改めの信仰を気分的に表すことに留まってしまった。そのような段階に留まる信仰には、生ける・永続する神のみを心に刻み付け、この神によって生きる堅固な生命形成力がない。

だから神は5節において、「わたしは彼らを預言者たちによって切り倒し、わたしの口の言葉をもって滅ぼす」といわれる。これまでも神は預言者たちの警告の預言をもって「切り込み」をはかってこられたが、いまやその預言の言葉によって「切り倒さ」ざるをえない。ホセアは、その審きの告知の預言者の一人となって、主の「口の言葉をもって倒す」神の審きをもたらす。そして、歴史を形成するのは、神の言葉であることを、はっきりと告げる。偽りの利己的な悔い改めは、神の恵みを期待できないだけでなく、それ自体が審きの下にあることが告げられている。

「わたしの行う裁きは光のように現れる」という言葉は、ヘブル語原文では「あなたの」となっている。それは、ホセアが民の悔い改めは誤ったものであると告知したその告知によって、来らせた神の裁きによって、神の「公義」、「光のように現れる」神の意志の秩序が再び現れることを語っている。その光は、祭儀だけに心を向ける誤った信仰で覆い隠せるものではない。その神の光によって、誤った悔い改めの信仰が、暴露されるのである。

最後に、ホセアは、神の強い意志を印象的な言葉で告げる。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」この言葉は、神が求めるのは、神への完全な献身としての神認識であり、犠牲ではない、ということを告げている。祭儀における犠牲は、結局のところ神から自分を買い戻すことであり、神への内面的・永続的な服従の献身をなすという決意表明とする信仰を欠くなら、義務の人為的な解放装置に脱することになる。

預言者は、この危険を鋭く察知し、神への服従、神の言葉への真の信仰と聴従のともなわない犠牲のあり方について鋭い批判を向けている。同じ批判は、ホセアよりも少し前に活躍したアモス(アモス5:21以下)にも、同時代に活躍したユダの預言者イザヤ(1:11以下)にも、エレミヤ(7:21)にも見られる。そして、サムエル記上15:22において、サムエルが、サウル王に対して、王として退けられる理由として述べていることは特に注目に値する。

表面的な神への敬虔さと礼拝が守られていれば、それで十分なのではない。ヤーウェの名を呼んで守られる礼拝にも、偶像礼拝が行われる可能性がある。契約の民イスラエルが、イスラエルとして本当にあり得るのは、その悔い改めが真実であるといえるのは、神の言葉に聞き、御言葉に生きることである。ホセアはその本質を見抜き、表面的なな悔い改め、宗教的興奮による民の熱心を認めない。ヤーウェが喜ぶのは「愛」、「神を知ること」とは、結局のところ、主の御言葉に聞き従う信仰以外にない、ということである。

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