マラキ書講解

7.マラキ書3章13-18節『主の愛に満ちた呼びかけ』

この箇所は、14-15節を信仰者の言葉とするか、不信仰者の言葉とするかをめぐって、解釈の分かれるところです。その解釈の分かれは、特に16節の冒頭の「そのとき」という言葉をめぐってなされます。70人訳聖書は「このことを」と読み替えています。そのように読み替えるなら、14-15節で主に向かって「ひどい言葉を語っている」といわれ、「神に仕えることはむなしい」と語っている「あなたたち」は、16節の「主を畏れ敬う者たち」ということになります。

しかし、新共同訳が元にしたヘブル語のマソラテキストのように、単に「そのとき」であれば、14-15節の「あなたたち」と16節の「主を畏れ敬う者たち」とは別々の人たちということになります。しかも、その場合、「主を畏れ敬う者たち」が語り合ったことが、何も書かれていないことになります。16節2行目以降の「主は耳を傾けて聞かれた。…」という言葉からすると、「主を畏れ敬う者たちが語り合った」ことが重要な内容であったと思われるのに、それがないのは不自然であると考える学者は、元来のこの箇所は70人訳のように「このことを」と読んでいたが、後に「主を畏れ敬う者たち」が、14-15節のようなつぶやきを語るはずがないと考え、「そのとき」に変えたのだろうと主張しています。元々の聖書テキストが何であったか原本を見ることができない今日、それについて結論を下すことができませんが、この解釈の可能性を否定することもできません。

また、元々のテキストがこのままであっても、わたしたちは、「主を畏れ敬う者たち」が14-15節のようなつぶやきを言うはずがない、という前提に立つ必要はありません。神を信じない不信仰者が繁栄し、神を信じ、御言葉に忠実に仕える生き方をしている者が、貧しく苦しみばかり味わっている現実を見て、「主を畏れ敬う者たち」が、「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え/神を試みても罰を免れているからだ。」と疑問に感じることは、別に不思議ではありません。その事を口にしたからと言って、不信仰だと決め付けることもできません。このあり得べきでないという現実を前にして、「主を畏れ敬う者たち」は、本当に神を棄て不信仰の中を生きる民が多く表われてくることを憂え、このようなつぶやきの言葉を述べたのかもしれません。

13節の「あなたたちは、わたしに ひどい言葉を語っている」は、直訳すれば、「あなたがたの言葉はわたしに対して強い」となります。それは、手に負えないほど強く、大胆な主への挑戦の言葉であったことを示しています。

聖書は、悪しき者の繁栄と、正しき者の不幸の問題について、常に一つの答えを用意しているわけではありません。時には、全く違う答えを示すことがあります。ヨブの苦難の問題に対しては、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは」(ヨブ38:2)という主の言葉が示されています。

しかし、この民のつぶやきに対しては、違う主の言葉があるように思われますが、これもそのように理解する必要はありません。16節の後半に、「神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された」とあり、17-18節の主の言葉は、人が現在見ている現実と異なる、神の許にある「その日」「そのとき」なされる現実が示され、約束として語られています。

ここには、ヨブに対して語られた、叱責や非難を表す主の言葉はありません。ヨブほどの信仰を持ち合わせていない、小さな信仰しかもたない弱き者に対する、主の慰めだけが示されています。14-15節に表される、不信仰といわれて非難されても仕方のないようなつぶやきの言葉を述べ、主に対して「強いる」言葉を述べているにもかかわらず、彼らが置かれている立場を察知して、彼らを裁くことなく、現実と信仰生活の矛盾に悩む彼らに、「主は耳を傾けて聞かれた」ことが述べられています。

また、「神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された」と16節後半にあります。「記録の書」は、聖書中ここだけに見られますが、「命の書」(詩編69:29)とそれに類似した表現(出エ32:32、詩編139:16)と同じ意味で用いられています。

人の現実と信仰との間に存在する矛盾に対して、ここでも直ちにその解決が与えられる、といわれているのではありません。しかし、そのような矛盾する現実があっても、主が記す「記録の書」(「命の書」)には、「主を畏れ、御名を思う者のために」、その名が既に記されていることをもって満足せよ、との言葉が示されています。また、「その日」「そのとき」示されるであろう、大いなる取り扱いへ目をむけ、期待して生きる信仰を求めて、主はこれらの言葉を語られます。

「宝」は、神の選びと関連する言葉です。契約に基づく特別な持ち物「宝」として、主はこの民を取り扱われます。「憐れむ」は、元来「惜しむ」の意であります。主は、「主を畏れ敬う者たち」が呟くことがあっても、「宝」とし「惜しむ」ほどに、特別な愛情をもって、大切に扱われる、ということが述べられています。

「主を畏れ敬う者」は、「そのとき」あらわされる「正しい人と神に逆らう人/神に仕える者と仕えない者との/区別を見る」信仰が求められています。

その「区別」とは、イザヤ65章13-14節によれば、

見よ、わたしの僕らは糧を得るが
お前たちは飢える。
見よ、わたしの僕らは飲むことができるが
お前たちは渇く。
見よ、わたしの僕らは喜び祝うが
お前たちは恥を受ける。
見よ、わたしの僕らは心の喜びに声をあげるが
お前たちは心の痛みに叫びをあげ
魂を砕かれて泣き叫ぶ。

という形で表されます。

ここには、呟く者に対する非難の言葉は、示されていません。しかし、呟くことが是認されているのでもありません。そのような呟きしか発せられない現実に苦しみつつ、なお信仰に生きたいと祈り願う「主を畏れ敬う者たちが互いに語り合う」その声を、「主は耳を傾けて聞かれた」こと、呟く彼らの名が、主の「記録の書」から消されず記されている主の恵みと愛の大きさ、主の日に表される契約に基づく、その者たちに表される特別な取り扱い、愛に目覚めて、現在の矛盾を信仰において克服せよとの、主の愛に満ちた呼びかけが、ここにはあります。このように、主の許にある「区別を見るであろう」との言葉は、そのまま現実を見る、信仰の目の置き方の転換、を求める言葉でもあります。

旧約聖書講解