イザヤ書講解

38.イザヤ書43章1-7節『恐れるな、わたしはあなたを贖う』

ここには慰めに満ちた主の救いの言葉が語られています。この言葉を聞いているのは、現在捕囚とされているイスラエルの民です。彼らの親や祖父は、「耳の聞こえない人、目の見えない人」として、主の告げられる審きの言葉に耳を傾けず、心に留めずに歩み続けたため、ついに主の告げられたとおり審かれて捕囚の民とされました。その子孫である彼らもまた、その変わらない現実の中で、「耳の聞こえない人、目の見えない人」として、無気力に過ごしていました。この見えないこと、聞こえないことは、どこまでも霊的・信仰的な状態を指して言われています。この点で、現在捕囚として苦しんでいるイスラエルも彼らの父や祖父と同じように、「耳の聞こえない人、目の見えない人」として、霊的・信仰的にどん底の状態にありました。しかし第二イザヤは、「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。」(イザヤ書42章24節)と問い、「それは主ではないか」と答えることによって、失望落胆している同胞の民に希望への転換もまた、主の呼びかけにどのように聞くかにかかわることを指し示しています。

その希望へと転換させる主の呼びかけが43章1-7節においてなされています。43章の冒頭は、ヘブライ語では、「しかし今や」という言葉で始まっています。それは、「この民は略奪され、奪われ、皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている」(42章22節)状態からの転換、新しい時の到来を告げる言葉として示されています。新しい時は、古き罪(42章18-25節)を抹消し(40章2節)、同時に開放の始まりを告げる神の新しい言葉と共にやってきます。

それは、「恐れるな」との言葉で始まる、救いの約束として語られています。その約束は、「わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」という、個人的な関係を示す言葉で語られています。

前回、イスラエルの苦難の問題は、決して個人的なこととして語られるのではなく、民としての問題が中心として語られているという説明をしましたが、43章1節のこれらの言葉は、よい意味で、それを否定するように個人に向けられた神の言葉としての響きが感じられます。第二イザヤは、ここで神関係にある新しいものが始まっていることを告げています。そして彼の告知全体は、民としてのイスラエルを対象にしており、決して一個人や、一グループのための言葉を語ることはありません。しかし、預言者は、捕囚の地で個々人に語りかけ、その使信を個々人の問題として受け取られるようにしなければ、民の現実が変わらないことも知っています。民全体が変わる突破口に、福音の言葉がこのように、個人の苦しみの中に深く入り込んで語られ、人を自由にする解放する言葉として聞かれることによって、その救いが生み出されます。第二イザヤは、個人に向けられた救済託宣を、民とその運命に大胆に適用することによって、民の一人一人の心に迫る訴えかけを行うことによって、聞こえない耳、見えない目を開くことに成功しています。

事実、神とイスラエルの歴史は、かつて、個人的な神関係によって規定されていた時代がありました。それは族長時代です。第二イザヤは、先ず、この時代に目を向けるよう民を促しています。ヤコブは、主の祝福を得るまで格闘した族長です。彼はそのゆえに、主からイスラエルという名を与えられ、主の民の歴史にその名を残しています。捕囚の民は、今、その名で呼びかけられています。「恐れるな」という呼びかけは、かつてアブラハムが恐れを抱いていた時に、「恐れるな、アブラムよ」(創世記15章1節)と呼びかけられたように、今やどん底までに落とされたイスラエルに、再び、「恐れるな、ヤコブよ」と個人の名で語りかけを聞くよう促しを受けているのであります。「わたしはあなたの名を呼ぶ」という主の言葉は、危機の中にある人間に大きな勇気を与える言葉です。孤独と戦っているものに大きな励ましを与える言葉です。主の命令に従って、イサクを犠牲として奉献しようとして、イサクに刃物を振り下ろそうとして瞬間に、「アブラハム、アブラハム」と呼ぶ主の言葉(創世記22章)は、その危機を救う呼びかけとしてなされました。

冒頭の、「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は」という言葉は、神があなたを民としてイスラエルを創造したことが明らかにされています。エジプトから救い出し、荒れ野の中を導き、約束に地に入らせたのは、わたしだと神は言われます。その事実は2節の言葉に表されています。

水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず
炎はあなたに燃えつかない。

2節のこれらの言葉は、まさにエジプトを脱出したイスラエルが死を覚悟する危機に直面した時に表された主の救いを指し示しています。「わたしはあなたを贖う」といわれる具体的な歴史における救いが示され、神のこのような歴史行動が新しいイスラエルの救いにおいても示されることが明らかにされます。

「あなたはわたしのもの」という言葉は、イスラエルの命は主の所有とされて、その命に対する責任を主が法的に負われることを指し示しています。主は贖うものとして、またイスラエルの所有者として、その命に責任を持つものとして、「水の中を通る」という死の危機の中にあるときも、「わたしはあなたと共にいる」ことを歴史の中で示されました。その同じ主が、現在の苦難を、わたしの問題として引き受けている、との発言をされているのであります。

この神の名は、3節で、「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主」として示され、神とイスラエルとの関係がさらに深く強化されて規定されています。神は創造者として自然を支配されるだけでなく、摂理の神として歴史を支配されます。その支配は、イスラエルの選びとイスラエルへの愛の中で示されています。

わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛し

という4節の言葉が、それを示しています。神はそのように今も変わりなく、ご自分が選ばれた民を愛しておられます。この神の愛の中にわたしたちのゆるぎない救いがあります。

そして、イスラエルの救い主として自らを示される主は、摂理の神として歴史を支配され、そのような方として諸国民の支配者であることを示されます。そのような力なければ、諸国民の歴史に介入することができません。言い換えれば、イスラエルを捕囚の現状から解放するということもできません。だから3節後半の、「わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。」という言葉は、そのような歴史の主として、イスラエルの救い主としてご自身をあらわされて事実を指し示しています。その過去の歴史は、現在の苦難から解放する大きな力を与える言葉として語られています。

そのようにかつて自らを顕された神は、今捕囚の民に顕されています。5節の言葉は、まさに現在の危機を転換させる神として示されています。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と言われる神は、現在苦難の中にあえぐイスラエルと共にいる、と呼びかけているのです。そのように苦難の中に生きるすべての人に呼びかることのできる方です。また実際神の呼びかけは、そのような危機の中にいる一人一人になされているのです。

わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り
西からあなたを集める。
北に向かっては、行かせよ、と
南に向かっては、引き止めるな、と言う。
わたしの息子たちを遠くから
娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。

この5節後半から6節に記されている主の言葉は、世界の隅々までご自身の支配の及ばないところはないという宣言であり、どのように遠くはなれたところからも、苦難の中にある民を救い出すことができるという宣言です。それは、諸国の王を支配し、そのことを実現する歴史の支配者としてのご自身を啓示する言葉です。地上のどのような権力の支配も、この主の歴史支配の下におかれています。

創造者である主は、歴史の主でもあります。だから、あのイスラエルの選びと救いにおいて決定的意味を持つ出エジプトの救いは、過去の記念としてしか語れない事柄ではなく、現在の救いに希望を与え、同じように現状を変えることのできる主を指し示す事柄として、第二イザヤによって新しく想起されています。

それはまた、主イエスの十字架の出来事においても同じ意味を持っています。十字架はキリストと結びつく思い出としてしか意味をなさないものではありません。現在の命の問題、苦悩する問題に救いをもたらす希望の言葉として示されています。神は、キリストにあってわたしたちを選び、キリストはその羊の名を覚えてくださる救い主です(ヨハネ10:3)。

7節は、この救い、選びの目標を明らかにしています。イスラエルの創造は、「わたしの栄光のため」であったと語られています。イスラエルは、そのために「形づくり、完成した者」と呼ばれています。主の栄光の器として、苦難や罪さえ含む歴史が神の栄光のために用いられる、ここに大きな慰めと希望が語られています。主はそのような弱さを持つわたしたちも、ご自身の栄光のために、「創造し、形づくり、完成した者」としてくださる、ここに希望があります。

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