ルツ記講解

3.ルツ記3:1-18『主の約束に生きる信仰』

3章は、レヴィラート婚制度の下で、買戻し(ゴーエル「贖い」)の権利と義務を負う近親者を見だし、その者にその責任を果たしてもらおうとするナオミの画策と、それを言われた通りに実行する嫁ルツと、その責任を問われる近親のボアズ、この三者を巡り、主の約束に生きる信仰の姿が描写されています。

「出て行くときは、満たされていたわたしを
主はうつろにして帰らせたのです。 (1章21節)

と嘆いて意気消沈し、絶望して、モアブからベツレヘムに帰ってきたナオミは、落穂拾いから帰ってきたルツのもたらした落穂の多さ以上に、ルツに厚意を示した人物が買い戻しの権を持つ近親のボアズであると知り、その心は深き淵から、希望と喜びへと転換します。ばらばらになっていた人格と信仰の調和を回復し、新しい可能性に向かって目が開かれていく、ナオミの姿が生き生きと描かれています。

ナオミの驚くべき大胆な画策は、イスラエルに認められていた(神に認められた)人の権利に対する信仰に基づくものです。

2章23節の「ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った」という言葉は、やがて示される神の恵みにすがりつく信仰を示しています。この信仰が、光りなき暗黒から希望の朝への転換を可能にし、それを導きます。

3章は、「今晩(夕暮れ)」(1-7節)、「夜半」から「夜が明けるまで」(8-14節a)、「夜明け」(14節b-18節)の三つの場面に分けることができます。

第一場(夕暮れ)は、人格と信仰の調和を回復したナオミが、嫁のルツに「落ち着き先」を積極的に勧告し、その手段を具体的に指示し、これに従うルツの行動が描写されています。

「ボアズはわたしたちの親戚です」(2節)は、買戻しの権を持つ者が誰であるかを示し、主の権利によりすがりつくべき対象を明確に指し示しています。「体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい」 (3章3節)は、その権を持つボアズに対する求婚(結婚)の準備をするようにとの指示を与える言葉です。ルツはこの言葉に従順に従い、「言われるとおりにします」(3章5節)と答え、ナオミから言われたとおりのことをルツは実行します(3章6-7節)。

ナオミは、神ではなく人です。しかし、ナオミの言葉は、神の約束の下に与えられている権利に基づいて語られたものです。その言葉に神の御心を認める信仰がはっきりと示されています。この驚くべき大胆な信仰の言葉に、「言われたとおりにします」というルツの言葉もまた、ナオミの判断と意思の中に神の御心を読み取る信仰が見られます。つまりルツは、この応答により、神の言葉に従う信仰の道筋をわたしたちに示してくれています。

「夕暮れ」に向かう暗黒の中で示される神の意思に「言われたとおりにします」という信仰に、一条の希望の光が神の下から差し込みます。

ナオミが指示し、これに従うルツの行為は、信仰に基づくものとはいえ、現代のわたしたちの目から見れば、人をだまし討ちするような大胆で不道徳のように見えますが、それはどこまでも、神の約束に従う行為として語られています。ですから、この物語において強調されている一番大切な点は、神の約束する権利に対する揺るぎ無い信仰の問題です。

そして、夜半から夜明けまでの暗黒の中で、神の意思に従う者に示される神よりの光りは一層強く示されます。(第2場)

ルツは夜半より夜明けまで、ナオミに言われたことに忠実に従い、ボアズの「足もとに寝ていた」ルツの信仰(求婚)の行為が、今度は、ボアズの厚意と信仰を勝ち取ります。

ボアズはルツに、「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」(2章12節)と語っていましたが、主の「御翼」の役割を、ルツが入り込んだボアズの「衣の裾」が果たすことになります。「裾」(カナフ)は、2章12節の「御翼」と同じ語が用いられています。こうしてボアズは、ルツのために祈り求めたこと(2章12節)を実現する器となります。

ルツの大胆な行為に驚いて、「おまえは誰だ」と尋ねたボアズに、ルツは、「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」(3章9節)と答えています。

このルツの言葉と信仰に対し、ボアズは、「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。」(3章10節)「あなたが言うとおりにします。」(3章11節)と答えています。「今あなたが示した真心」は、ルツが示した「今までの真心」と区別されて語られています。「今までの真心」とは、ルツが姑のナオミを捨てずに一緒にベツレヘムに行った態度をさしています。そして、「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」といわれる「今の真心」とは、「若者」ではなく、近親(ゴーエール)のボアズによって、エリメレクの子孫を得ようとしたことを指して言われています。「真心」は、神の誠実(愛)を示すヘセドという語が用いられています。ルツの真心は、神の誠実(ヘセド)に基づくものであり、神は、その契約の約束に誠実に生きる者に、誠実に答えられます。

この場合、ボアズは神の約束を実現し媒介する器として、その任務を忠実に果たそうとします。ボアズは自分よりも優先してその権利をもつ者に、その義務を果たさせようとしますが、それが不可能な場合、自らそれを果たすと語ります。

ボアズのこの言葉によって、ナオミの暗黒の希望なき歩みに終止符が打たれ、希望の未来が明確に指し示され、「夜明け」がきます。(第3場)

ボアズは、自ら語った約束を誠実に果たすために、ルツの行為が人から誤解を受けて、その立場を失うことのないよう、実に注意深い配慮を持って、人に気づかれないよう家に帰す、知慧ある人でもありました。それだけではありません。このような大胆な行動をルツにとらせた、その姑ナオミの心を思いやり、「手ぶらで帰すわけにはいかない」(3章17節)といって、ルツの肩掛けに「六杯の大麦」を入れて、ナオミのもとに帰らせます。ボアズのこの言葉は、

「出て行くときは、満たされていたわたしを
主はうつろにして帰らせたのです。」(1章21節)

というナオミの嘆きを逆転させる神の恵みを指し示すものであります。

ナオミは、この具体的な神の恵みのしるしを見て、神の恵みによる贖いの日を、信仰をもって待ち望むよう導かれます。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」(3章18節)というナオミの言葉は、ボアズを通して現わさられる神の恵みによる贖いを待ち望む信仰を示しています。

わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。」というナオミの言葉は、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」(出エジプト記14章13節)というモーセの信仰や、「落ち着いて、静かにしていなさい。」(イザヤ書7章4節)「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(同7章9節)というイザヤの信仰とつながっています。

この物語には、少しも神の語りかけの言葉が記されていませんが、物語に登場する人物は、皆、神の約束を信じ、神の約束に対する誠実(ヘセド)を信じています。人間の目に見えないところで事柄を支配し導かれる神を信じるが故に、現在のことに対しても、すでに与えられている約束(この場合は「買戻し」の権利と義務)に従うことが人には可能だし、また人は状況のいかんに関わらず、そうすべきであるということが教えられています。

主は、ご自身の与える約束を信じ、じっと待ち望むものに、暗闇から光へと一新する救いをもたらしてくださるお方です。この待ち望みの信仰に、不毛と絶望の状態から豊かさと希望の朝が明け染めます。ナオミとルツは、この待ち望みの信仰によって、主による希望の朝がくるのを待ち望みます。この約束を現実に具体的に実現していくのは、この物語においてはボアズでありますが、ボアズは、ルツに、「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように」(3章10節)と語ったように、自らの行動の背後に、主の働きと支配を認めながら静かにその行動をとっていきます。その姿が4章において明らかにされていきます。

旧約聖書講解