エレミヤ書講解

48.エレミヤ書31章1-9節『とこしえの愛』

ここには「とこしえの愛」を持って捕囚の民をシオンに帰還させるという大きな慰め、希望が語られています。しかし、これらの言葉には、エレミヤ自身に由来するものが含まれ、それが下敷きにされていると考えられますが、その多くは捕囚時代末期における編集者に由来すると考えられます。

1-6節は、エレミヤの初期の北イスラエル王国に向けた語られた預言が核になっていますが、ユダを含めた全イスラエルに向けて語られたシオンへの帰還が語られています。エレミヤの活動の初期に(前620-609年)、北イスラエルに悔い改めを促し、救済を約束する預言が語られました(3章12-13節)。

しかし、エレミヤの北イスラエル救済に関する預言は実現しませんでした。ここには、エレミヤの悔い改めへの呼びかけが聞かれなかったからです。31章1-6節は、その事実を見定めながら、ユダの捕囚民を含めた全イスラエルに対する救済の約束として、捕囚時代の末期の状況を背景にして、エレミヤの言葉として語られ、聞くように求める言葉が記されています。

その際、捕囚の現実は、主の言葉に聞き従わず、主の意志に反し偶像礼拝の罪を犯した罪に対する裁きとして認識されています。そうであるなら、イスラエルの残された希望は、再びこの預言者の言葉に聞き、神に立ち帰る以外にありません。しかし、この預言は、神に立ち帰る姿勢をまだ示していない民に向けて語られています。

主の言葉はまず、「わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」(1節)という約束から始められています。神は、再び全イスラエルを「わが民」として、その救済に与らせようと、招きの言葉を発しておられます。

その際、回顧されるのは、出エジプトにおける荒野時代です。かつてイスラエルの民はエジプトを脱出し、奴隷の苦役から解放され、安息を見出すべく旅をしました。カナンという約束の地をめざすその旅は、主が彼らに恵み深い態度を示された、と言及されています。バビロンという捕囚の地からの解放と救いは、第二の出エジプトの出来事として起こることが示されています。

その救いはどのようになされるか、3節において述べられています。

第一に、主の現臨による導きが与えられることによって起こることが語られています。「遠くから・・・現われる」という形においてそれは実現します。捕囚の民は神殿を破壊され、約束された地から引き離されて、彼らは文字通り、主の現臨と救いから遠ざけられた民として自らを理解していました。しかし、そのイスラエルに「遠くから・・・現われた」という言葉は、そこにも主の現臨と支配が可能であることを示す喜びの告白が明らかにされています。その喜びの体験は、もはや主は遠くではなく、バビロンの地においても主は「近くにある」という信仰を可能にします(創世記28:15,16)。バビロン捕囚は主の審判として、エレミヤの預言どおり実現した事柄であり、エレミヤはそれを「新しい発端」として受け入れるべきことを語っていました。その新しい発端とは、まさに捕囚を通して新しいイスラエルの創造を始めることであることが示されていました。

第二に、その救いは、永遠に変らない主の愛によって実現することが語られています。「わたしは、とこしえの愛(ヘセド)をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」という言葉がそれです。民の側が契約を破って罪を犯すことがあっても(実際イスラエルはそうしましたが)、神の慈しみが契約を立て直します。神は不変の愛をもってその契約を立て直される。ここにイスラエルの希望が明らかにされています。そして、そこから悔い改めへの道が開かれています。イスラエルが悔い改めたから、神はその愛を注がれるというのではなく、神がとこしえの愛をもって、その契約を覚え、変ることなくその愛を注がれることによって、イスラエルを救うといわれるのです。この先行する神の愛、契約の愛がとこしえに変ることなく存在し、与えられるという大きな喜び、希望が悔い改めの信仰を呼び覚ますのです。

神のとこしえの愛は、行動を伴なうものです。イスラエルを再建するのは神です。イスラエルは、力なく権利もない「乙女」の状態です。夫であり、父である神が、その命を守り、その家を建てるのでなければ、シオンに帰っても住む家がありません。だから、「おとめイスラエルよ、再び、わたしはあなたを固く建てる」(4節)との約束が与えられています。そこで、イスラエルがなすべきことは、太鼓をたたき、楽を奏して、共に踊り、主の救いを喜び賛美することであるといわれています。そのような喜び、全身を持って喜びを表わせる日を捕囚の民はどれほど願いまったことでしょう。それがいま実現するというのです。30章24節の「終わりの日」に表わされる喜びがここに語られています。

北イスラエルは、ダビデ王朝に反逆してヤロブアムによって建てられた王国でありました。シオンにある神殿に対抗して、ベテルとダンに聖所が立てられ、そこで礼拝が守られていました。その礼拝には、バアルのために植えられたぶどうの木から採られた実が捧げられました。5節の言葉が意味していることは何か明らかでありませんが、バアル礼拝に言及して述べられている可能性を否定できません。救われた彼らは、帰還したサマリアの山に再びぶどうの木を植えることができるといわれています。それは、もはやバアルではなく、しかもサマリアにおいてではなく、シオンでヤハウエに捧げるのです。古い北王国の民イスラエルがシオンを神の聖なる住まいとし、イスラエルの民は将来統一されるというメッセージが語られています。しかしそれは、全イスラエルの統一と救いを象徴的に語るもので、新しい契約においては、書かれた言葉としての「律法」の遵守ということよりも、心に記される律法(31:33)が強調されています。新しい心は主によって創造され、主の恵みによって変えられた心で主に生きるものに変えられるのです。

主は、そのようにイスラエルを新しくして、シオンへの帰還を導かれます(6節)。

7-9節は、明らかに第二イザヤの影響が認められます。ここで「イスラエルの残りの者」とされる帰還者の中に、「目の見えない人」「歩けない人」「身ごもっている女」「臨月の女」がいる(8節)といわれています。これらは、か弱く保護を必要とする人々です。しかし、「身ごもっている」という言葉にイメージされているのは、それ以上のことです。生命を生み出し祝福するというイメージも表わされています。滅びが猛々しい男たちによって襲来したのに対して、救いの喜びは神に守護された女たちによってもたらされる、という神の恵みが示されています。

9節の言葉が示す心象は、出エジプトに勝るものです。出エジプトの民は、主の道をまっすぐに歩むことができませんでした。しかし、バビロンからの帰還者は、「まっすぐな道を行き、つまずくことはない」といわれています。イスラエルを導かれる方は、彼らの父として、その導きを与え、彼らを長子として、約束の恵みをすべて相続するものとしてくださるというのです。それがとこしえの愛ももって愛し、変ることなく慈しみを注がれる神によるものであるだけに、もはや失われない確かなものです。イエス・キリストの日に表わされる救いもそのように確かなものです。

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