申命記講解

23.申命記31章1―29節『モーセの後継者ヨシュアの任命と律法の文書化の意義』

4章―30章は、全体が一貫してモーセの言葉、説教を中心にして叙述されていますが、モーセの三大説教の最期の説教が30章で終わり、31章は、モーセに対するヤハウエの最後の言葉、ヨシュアの任命(1―8節、23節)、会見の幕屋での神顕現(14-15節)、モーセの歌を導入する準備(16-22節)、申命記の朗読と寄託に関する指示(9-13節、24―29節)、等を記しています。

31章の叙述は、モーセの説教としてではなく、後代の時点からモーセの死の直前の出来事を回顧するものとして記されています。本来の申命記と言われる部分は4章44節-30章20節で、1章1節-4章43節と31章―34章は、申命記とは別のまとまりをなしています。それは、ヨシュア記から列王記下の末尾までに及ぶ、申命記史家による歴史著作である、というのが、現代の聖書研究者の一致した見解です。

1―8節の段落は、内容的には、申命記3章23節-29節に記されている状況と結びついています。モーセは、自分が約束の地に入っていくことができないことを聞き、これから先は、ヨシュアがモーセの後継者として、イスラエルの先導役を引き継ぐようにヨシュアにその任務を委託しています。モーセは「これらの言葉」、つまり申命記の決別の言葉を語り終えた後で、この委託を行うことに応じています。モーセは先ず、これまでの指導者としての務めの終わりが目前に迫っていることを全イスラエルに知らせています(3-6節)。

「 あなたの神、主御自身があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国々を滅ぼして、それを得させてくださる。主が約束されたとおり、ヨシュアがあなたに先立って渡る」(3節)、という言葉は、指導者の交代ということがあっても、そもそもイスラエルを約束の地に導くのは、主ご自身の先導と働きによるので、何の不安も感じることはないということを強調しています。モーセからヨシュアへの指導者の交代は、申命記の記述によれば、120歳の高齢の故に、「もはや自分の務めを果たすことができない」ということであり、指導者の交代があっても、本来の導き手が主なるヤハウエである限り、「あなたを見放すことも、見捨てられることもない」、恐れることも、おののくこともない(8節)と告げられています。イスラエルには、これらの言葉を、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:6)という信仰を持って聞くことが求められています。

9-13節の段落は、ヤハウエの偉大な啓示の受領者・仲保者としてのモーセが、これまで口頭で受け継がせられたものは、今や、書物の形で祭司に引き渡されること、それを、今後は、折に触れて、共同体の集会を前に、読み聞かせねばならない、ことを告げています。これは、啓示の言葉の正典化に向かう端緒を示す言葉です。またモーセが担ってきた職務もレビ人である祭司や長老たちに受け継がれ、モーセの仕事が続けられることを示しています。それは、「男も女も子供も、町のうちに寄留する者も集めなさい。彼らが聞いて学び、あなたたちの神、主を畏れ、この律法の言葉をすべて忠実に守るため」(12節)で、心から「主を畏れて」(13節)、生きるものとするためです。新約的に言うなら、礼拝に集い、主の民として共に御言葉に聞き、主を畏れる者として生きことの大切さが教えられています。

16節以下の神の言葉の目的は、モーセを促し、彼にその歌(32章)を書き記させるためです。後にイスラエルが契約を破るとき、この歌がイスラエルに対し証として立ち向かい得るという目的で、行なわねばならないことが明らかにされています。

この神の語りかけに、24―26節にある、レビ人に対するモーセの言葉が続いている。この律法は、後にイスラエルが背き離れる時には、イスラエルに対し証として立ち向かうと言われています。29節は、約束の地カナンで、主への畏れを忘れたイスラエルが堕落し、主を怒らせる事態が起こることが記されています。申命記を現在の形で読むことになった読者は、捕囚を体験した世代です。この言葉には、その時代の民に向かって、現在の悲惨さが神の言葉=律法に聞かなかった罪であることを反省し、神に立ち帰ることが必要であることを教える意味があります。

イスラエルには、神の言葉を取り次ぐモーセがいなくなっても、その言葉を取り次ぐ後継者ヨシュアがおり、神ご自身が、次々とその職務を担うレビ人である祭司や長老を立て、さらに、律法の言葉を書き記させ、共同体の集会において読み聞かせられるようにして、イスラエルが歩むべき道に立ち帰るようにする導きを用意されることが、この章において語られていることの一番大切な点です。聖書の正典化の意味を考える上で、この箇所から多くのことを学ぶことが出来ます。

旧約聖書講解