マラキ書講解

2.マラキ書1章6-10節『正しい神礼拝』

1章6節-2章9節は、正しい礼拝(祭儀礼拝をめぐって)についての預言者的叱責と警告の言葉が記されています。1章6-14節では、「正しい礼拝」のあり方について、2章1-9節では、「祭司への警告」が述べられています。

新共同訳の区分に従って、最初に1章6-10節までを取り上げます。10節までにしたのは、11-14節は多くの注解者が指摘している通り、後代の付加である可能性があり、祭儀批判の焦点が少しずれ、真の主題からそれる恐れがあるので、別に扱う方が良いように思われるからです。

さて、祭司たちの職務軽視を叱責し、神の処罰の宣告がなされるこの箇所を貫く主題は、祭儀批判そのものにあるのではありません。2-5節において明らかにされた神の選びと召しにより、民とされ神の愛の対象とされているイスラエルは、神礼拝において、畏れと敬神の態度を表すことによって、その交わりを喜ぶ者として歩むことが期待されていました。そして、祭司たちは、神の愛に応える神礼拝を整え、正しい方向に導くために召され、特権的な地位を与えられていた人々でありました。したがって、これから繰り広げられる祭儀批判、とりわけ祭司たちに向けられる叱責の言葉は、こうした理解を前提にして繰り広げられています。

6節では、当然のようにその前提に立って、日常のどこにでも見られる題材から、祭司批判が試みられています。子が父に、僕が主人に示す畏れと敬いの態度は、当然のこととして期待されていました。それと同じく、神は「父」として、また「主人」として、その子であり僕であるイスラエルから尊敬され、畏れられるべきお方でありました。ここで畏れは、「畏怖」のことであり、神を愛する心のことです。

神と人間の関係は、決して対等ではあり得ません。罪と汚れに満ちた人間が、顔と顔とを合せて直接神を見ることは、死を意味すると考えられていました(出エ3:6)。その至高の神が謙って、その目を注ぎ、同じ視線で愛を示し、救いの手を差し伸べることは、それ自体が奇跡であり、驚くべきことです。だから、人がこの神の愛に対してなし得ることは、ただ畏れと敬神の態度で、神の命令に服し、礼拝することだけでした。しかし、イスラエルには、それが欠けていました。とりわけ、その礼拝を取り次ぐ立場にあった祭司が、自らのつとめに課せられている光栄と責任を自覚せず、それを果たしていなかったのです。

それゆえ、「わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら/わたしに対する畏れはどこにあるのかと」という主の言葉が祭司たちに向けられています。そして、彼らは、「わたしの名を軽んずる祭司たちよ」と呼ばれていました。「名」は、神自身を啓示するものですから、神殿礼拝において、定められた規定に従わない祭儀行為を、「御名」において現臨される主ご自身を汚すもの、と考えられていました。

しかし、彼らは、この叱責・非難の意図を理解していませんでした。彼らは、それを理解していなかったから、また平気で御名を汚すことを行っていたということもできますが、彼らは、それを理解できる立場にありましたし、理解しているものとして、その定めに従い、積極的に従うよう民を指導する立場にありました。

「わたしに対する尊敬と畏れはどこにあるのか」と問われ、「わたしの名を軽んずる祭司たちよ」という叱責を受けて、「我々はどのようにして御名を軽んじましたか」と問い直し、開き直る祭司たちの「心」の無感覚さこそが、ここで問題にされています。だから、7節の「汚れたパンをささげておきながら」という外的行為の指摘は、事柄の本質の現われの一つに過ぎません。

祭司たちだけでなく、民の側も、自分たちが規定に従わない、あるいは従い得ない、自分たちの犠牲祭儀のあり方に対する反論の合理的理由がある、と考えていました。それは、改善されない経済的貧困から来る問題でありました。貧しくては、規定に従う祭儀礼拝を、十分に行うことはできないのだという反論です。そして、祭司たちが民の苦しみに同情して、規定無視の行為を是認して行ったかというと、そうでもなかったのです。

主に対しては、「目のつぶれた動物」、「足が傷ついたり、病気である動物」をささげておきながら、人間に過ぎない地上の支配者ペルシャの総督には、高価な贈り物を贈って尊敬心をあらわしていました。この事実を、祭司たちは知っていました。直接利害が絡む地上の支配者には、打算で良き物を捧げていました。しかし、同じ打算の心で、その恩恵が目に見えて現れるようには思えない主への礼拝には、「目のつぶれた動物」、「足が傷ついたり、病気である動物」を捧げていました。これが、当時の神礼拝の現実の姿でありました。

ハガイは、「神殿を再建するときは来ていない」といって、神殿再建に消極的な民に向かって、「今、お前たちはこの神殿を廃虚のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでよいのか」(ハガイ1:4)という、主の言葉を告げました。アマレクを打て、という聖絶命令を受けたサウル王は、牛の最上のものなど、「上等なものを惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くし」、主の言葉を退けましたが、そのことを非難されると、それは「主への供え物にしようと」した意図からであったと弁明しました。しかし、サムエルは、「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル上15:22)と答えています。

これらの言葉が言い表していることは、本質において同じです。どのようなときも、恵みの主の命令を喜び、それに心から服従の姿勢において応えようとする信仰があるか、ということです。主の恵みと約束とが、現在豊かに表されていると自分が信じるかどうか、そのことが問題なのではありません。そのことを問題にする心は、御利益信仰です。御利益信仰に生きるものは、事柄が順調に進展しているときだけ熱心で、教会の事柄にも献身的に成り得ます。

ここで問われている問題は、「敬虔」さでも、ささげものの質の問題でもありません。しかし、人の内にあるものは、外に現れます。それを一体として見る、信仰のあり方です。

神に傷ついたもの、汚れたものとされているものを平気で捧げることができるくらいなら、同じように「それを総督に献上してみよ」と、主は問われます。総督が、そんなものを受け入れるはずがない。マラキは、その事実を祭司たちに突き付けます。

8、9節の「受け入れる」という語は、直訳すると「(誰かが他人の)顔を上げる」となります。これは元来、「へりくだってひざまずいている人の顔を上げる」ことを指し、願いを「聞き届ける・快く受け入れる」の意味になります。

9節は、皮肉の意味が込められています。神の恵みに対する心からの期待感もない彼らの礼拝と、そこから出てくるささげものに対する態度、ここには、深い関係が存在します。しかし、まったく期待をしていないわけでもないことが、中途半端な礼拝となって現れます。そこから、本当に神の恵みを人は期待し得るのか考えてみよ、との問いかけがここにあります。

「今、神が恵みを与えられるよう/ひたすら神に赦しを願うがよい。」この言葉は、胸にぐさりとくる主の言葉です。「神に赦しを願う」は、直訳すれば、「神の顔を和らげさせる」です。「和らげさせる」というヘブル語の動詞のピエル形は、常に「顔」と一緒に使われて、「怒りや懲らしめではなく優しさを示すように顔をなでる」の意味があります。だからここでは、恵みを神が与えてくださるように神の顔をなでて、なだめてみたらどうか、という提案となります。神がそれを喜ぶだろうか。喜ぶはずがない。しかし、祭司たちは、そのようなことを行っている、という事実を突き付ける言葉となっています。

「神はあなたがたの誰かを受け入れてくださるだろうか」という問いも、「決して受け入れるものはない」という、神のかたい拒絶の意思が示されています。人間でしかない総督も喜ばないものを、神が喜ばれるはずがありません。そのような愚かな礼拝行為をしていては、誰も神から恵みを期待できないことを、マラキは、主の言葉として告げています。しかし、その問いは、今を生きるわたしたちにも向けられています。わたしたちは貧しいのですといいながら、最上のものを自分たちの手元においていたり、直接利害の絡むものには使用しておきながら、神に対しては惜しむ、ということを本当にしていないのか、マラキは私たちにも問いかけています。9節の言葉を自己吟味のために聞くことが求められています。

そして、礼拝について責任のある祭司に、マラキは10節において問うています。主に対する畏れのない、尊敬心を欠いた祭儀を閉め出すべく、勇気を奮って神殿の戸を閉めることのできる祭司は、その責任を果たしているのか、と。「戸」は、神殿本体の戸ではなく、その内部の祭司の庭に至る戸です。その戸を開閉するのは、祭司のつとめの一つでありました。その戸が閉じられたなら、いけにえを捧げることは不可能です。

民が、主に喜ばれるささげものをもっての礼拝を守る意志を持たないのなら、せめて祭司は、そのような空疎な礼拝を捧げさせることを止めさせることはできないのか。止めさせる手段も権限も持っているお前たちが、そのことをしないのは、どういうことか。主の叱責は、どこまでも厳しくなされます。教会の礼拝を直接司るのは、牧師です。しかし、礼拝と聖餐に誰を与らせるべきかを決めるのは、小会(長老会)のつとめです。礼拝の導きに連帯して責任を持つ者が、その自覚を十分に持たなくなった教会の礼拝は、乱れていきます。現在の教会の礼拝はどうか、その責任ある立場にある者に向けられる神の言葉は、一人の信徒に向けられるより一層厳しいものがあります。その名誉が重く与えられているだけに、当然です。

このことに対する自覚と取り組みのない礼拝に対して向けられる、神の最後通告は、

わたしはあなたたちを喜ぶことはできないと
万軍の主は言われる。
わたしは献げ物をあなたたちの手から
受け入れはしない。

です。神に喜ばれない礼拝となっていないか。空しいささげものになっている献身行為に対する、深い反省を神は期待し、もう一度最初の愛を思い起こすよう促して、これらの言葉は語られています。神は、「愛するものを叱責する」方であることを覚えましょう。

旧約聖書講解