詩編講解

44.詩編90篇 『とこしえにあなたは神』

この詩の作者は、人生経験豊かな高齢の信仰者であります。彼は永遠なる神を思って人生を回顧しています。彼は神にのみ信頼を置く人間であります。この詩全体に、神への信頼が鳴りひびいています。しかし、彼は神の永遠性から人生を眺めるとき、そこに見える生の現実が無情であることを知っています。それ故に、彼は永遠の神に祈ることによって、その神の恵みによらずして人生の喜びと勤労の確かさを覚えることができないことを知しりました。

1節で神への信頼が歌われています。神への信頼こそが彼のすべての生を支える力であるからです。この1節の調べが、この詩全体を流れる基調音となっています。

「主よ、あなたは代々にたってわたしたちの宿るところ」と歌うことによって、詩人が神に信頼を寄せて生きてきたことを告白して、この詩は始まります。彼は、過ぎ去った日々を回顧することによって、歴史が進行する中で、常に神を見上げ、神の中に自らの生の支えを見出してきました。彼が与えられている、信仰の長い、生きた伝統の中で先祖たちと共に立つことが許されているという意識こそ、現在も未来も神に信頼を寄せて生きることができる、という勇気を与えるものでありました。彼はその信仰をもって、人生の無情の現実を直視します。彼は、神への信頼という確固たる基盤を持たなかったなら、希望なき状況を前にして、神に助けを求める道を見出すことができなかったことでしょう。

2-6節には、神の永遠性と人間の無情という対立が歌われています。
天と地は、人の目に不動のように見えても、日々変化しています。しかし、「大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」と告白し、詩人は、たとえ天と地が滅び、また、自分の命が失われることがあっても、神だけはそうしたことに影響されず、その確かさを永遠に保たれるお方であると告白しています。神の存在は、永遠という時間の長さによってのみ、偉大なのではありません。神は無限の存在者として、時間の中で生き死んでいく人間に、時間に打ち勝つ現在の生き方と意味を与えるお方でもある故に、偉大なお方なのであります。永遠の神の確かさこそ、人が信頼することのできる唯一の支えであります。

「人を塵に返す」のは神であります。「人の子よ、帰れ」と神から一言あれば、人間の生命はそこで終わります。永遠の神の力に比べれば、人間とは何者なのでしょうか。塵より生まれ、神の意思に従って塵に帰る存在でしかありません。私たちはこの神に視線を向けるとき、はじめて、人間の無情について理解することができます。逆説的に言うなら、人間が死に対して視線を向けることによって、神の永遠性と力とがいったい何を意味するのかが、幾分かは理解できるようになるということであります。

千年という歳月は、一人の人間が見渡すことのできない大きな時間ですが、神から見れば、昨日のごときものでしかありません。このような尺度から見るなら、人生とは何とちっぽけでせせこましいものでしょう。

人生は、神が人をいわば流れ去る川に漂わせるようなもので、朝起きて思い返しても何の意味もない眠りのようなものでしかない。野の草は、朝日とともに花を開くが、夕が来ればしおれて枯れてしまいます。人は、そんな草のように移ろう存在でしかない、と詩人は歌います。

しかし、彼がここで描こうとしているのは、人生を悲観せよということでありません。現実をあるがままに見よという冷静な現実主義であります。それは、現実に妥協的な現実主義ではありません。すべての事柄を神に照らしてみる、その視線から見る現実主義であります。私たちは神に目を向けるとき、本当の意味で人生の現実に対してはじめて目が開かれ、冷静で誠実な態度で現実を見ようという勇気が沸いてきます。その時はじめて、私たちは自己欺瞞から解放されます。人生を刹那的にしか生きられない人間とは異なる姿を現すのであります。

7-12節において、人間の無情感がその根本で神の永遠性と対立するのは、その神に対して持つ意思においてであることを明らかにしています。詩人はそこに、人間の罪を認めています。

神のかたちに創造された人間は、神に対して無関係な観客のような存在ではありません。私たちは神との生ける人格的な命の交わりに生きる当事者として、語りかけられる者として立てられた存在であります。神の前に絶えず自分の運命について決断を迫られている存在であります。

彼は自分の中に相対立する二つの意思の力が働くのを知っています。旧約聖書において、病気や災い等の無情な現実の中に、自分の生き方と対立する神の意思が働いているのを認める思想があります。それを、自分に向けられた神の怒りと見る思想であります。こういう無常感は、神への畏怖と人生に対する宿命を同時に感じとります。しばしば人間は意識すると否とに関わらず、自分自身の力で永遠であろうとします。しかし、その意思と願望が強ければ強いほど、宿命的に無常感に襲われます。自分自身の生への意思に対立する神の否をそこで聞き取るのです。その時、人間は、無情の中に生きる自分に対立する神を敵として感じとります。そうした無情な生を人間は拒もうと欲します。そこに神とその意思が働いているにも関わらず、それを拒もうとすることは罪となります。

神と人間の対立がこのような形であらわになると、罪もまたはっきりとした姿を現します。通常、人間はその本性が神の意思に対立していると意識していませんし、対立しているという事実を隠して生きています。自分の本質の深淵について、必ずしも、いつも認識しているわけではありません。しかし、彼は、「あなたはわたしたちの罪を御前に 隠れた罪を御顔の光の中におかれます」(8節)と告白し、神の御前には、私たちの隠れた神の意思に対立した生の願望があることを認めます。そして、それがどれほど大きく強い願望であっても、神の御前に罪として、御顔の光の中におかれている、というのであります。

神がいますところ、神の要求が聞こえてきますが、そこでは個々の隠された罪のみならず、自分自身の意思を貫き通そうとする人間の根本的な態度が、その本質からして罪であるということが明らかにされます。

人は神の御前に立つとき、同時に、審きの下に立つのです。
私たちは神の意思によって測られるとき、その生の内側の空虚さと無とが明白になります。私たちはその人生において、できれば自分の意思で生きたいと願い、自分の快楽を追求し、永遠に続かないと知りつつも、その事を欲します。しかし、その願望は半ばで失望に終わります。こういう人間の努力に対して神が置く境界線は、死という現実であります。

詩人は、その現実を10節において歌っています。
しかし、この現実を何となく無関心で過ごしたり、避けて通ろうとする人間が実に多いことを詩人は知っています。そこにまさしく人間の罪があります。人間の現実の悲惨を見て、神を畏れる者に救いは近い。なぜなら、彼は神を信じ神に人生の意味を尋ねるようになるからです。

彼は、神の意思を見ようとしなかった自己の罪を呵責なく断罪し、自己の希望にのみ生きようとした生き方を否定し、神の御腕の中に全く身を委ねる以外に、まことの信仰の道がないことを告白します。(11-12節)

自己否定の道は絶望に終わるのではなく、神にある喜びの道に繋がっています。しかし、この生き方を人間は自力で達することはできません。神御自身が新しい目と新しい生への力を与えてくださるのでなければ、人はそこに立つことができません。神の言葉が新しい目と新しい生への力を与える原動力となります。御言葉に己を委ね聞くところから新しい生が始まります。そこに立とうとして委ねる者には、神にある新しい生はすでにはじまっているのであります。

その信仰に立ったとき、彼には、神に祈ることが重要な課題となりました。人間は自ら生き方を変えることができない(それはあくまで神との関係において)と理解するなら、神の恵みと助けが必要となります。それには、祈りしかありません。祈りに没頭して何もしないというのではなく、人生全体を神への祈りとして神に向かっていく、そういう新しい生き方が課題となるのであります。

人間が生の喜ばしい肯定に至るには、神の恵みが必要であります。神の恵みなくして新しい一日ははじまらないのです。ここに祈りと神を礼拝する新しい人生がはじまるのであります。

13-17節には、そのような祈りによる神の恵みに生きる新しい生の姿が歌われています。

この信仰の新しい目と新しい生き方を知った詩人は、人生の黄昏を嘆くことなく、神の威光を仰ぐことを喜びとし、自分の願望からうまれる喜びではなく、「主の喜びがわたしたちの上にありますように」と祈り求めています。彼は、人生の実り、働きの確かさを、神の祝福に期待し祈ることによって、無常感を克服しています。

彼は、神の意思と祝福の下に立とうとする人間には、人から見てその人生がいかに無常に見えても、希望と喜びに満ちているし、反対に、どんなに立派そうな自覚的な生であったとしても、それは一瞬のうちに失われてしまうむなしいものでしかない、と語ります。人生の実相は、神の永遠の光の中におかないと見えないのであります。

旧約聖書講解