イザヤ書講解

49.イザヤ書49章1-6節『国々の光として』

49章から第二イザヤ(40-55章)の後半が始まります。40章から48章まで、ペルシャ王キュロスが主の歴史支配の手、主に油注がれたイスラエルの救済者として、イスラエルの解放者となるという福音が告げられました。しかし、キュロスは48章14節を最後に舞台から消えていきます。それに代わって登場する主題は、苦難の僕と、彼を通して与えられるイスラエルを待つ輝かしい未来です。

49章1-6節は、「第二の僕の歌」と言われています。この歌が歌われた時期について、いろんな注解者の意見がありますが、前539年のバビロン陥落に続く捕囚民の帰還が始まる頃の事情が反映されていると思われます。

この「僕の歌」で呼び掛けられているのは、異邦の諸国民です。「島々」は、終末的な意味を持つ、イザヤの愛用する言葉で、当時の地理的知識の限界を越える終末的な広がりを示しています。これまで、主の救いから遠いところにおかれていた世界の諸国民が、主の僕によって、「わたしに聞け」「耳を傾けよ」と呼び掛けられているのであります。ですから、この主の僕の歌は、「地の果てまで」(6節)もたらされる主の救いの言葉として述べられています。

この僕は、エレミヤのように、母の胎内にいるときから聖別され、預言者として召し出されています。僕は、主によってその名を呼ばれ、その口は「鋭い剣として御手の影に置かれ」、彼の存在は「尖らせた矢として矢筒の中に隠された」といわれています。

「御手の陰に置く」という言葉が指し示すのは、僕の働きには主の意思が隠されているということです。つまり、しもべの姿、行為、言葉の中に、主の意思が表されるということです。

3節において、このしもべは、イスラエルでもあることが述べられています。イスラエルを集合人格として、主はこの僕のうちにご自身の栄光を表す器として、この僕を用いるということが述べられています。イスラエルが捕囚という苦難を潜り抜けてその救いに与っていく姿は、まさしく主の栄光を表す鏡であることが述べられています。イスラエルの将来は、主の僕の姿の中に表されています。

しかし、しもべがこれまで経験して知ったことは、「わたしはいたずらに骨を折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」という預言者としての挫折です。この僕は、民に聞かれない挫折を通してひとつの大切なことを学びました。「しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。」という核心です。

預言者は、語る言葉が聞かれないことに困窮します。しかし大切なのは、その語る言葉が直ぐに聞かれるか否か、その言葉が直ぐに成就するか否か、ではなく、彼の職務、その委託がだれから来ているかという問題です。

主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。
今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ
イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを
御自分の僕として形づくられた主は(5節)

しもべに与えられているこの職務についての自覚を表すこの言葉は、御言葉を語るすべての説教者を励まし、慰める言葉です。僕の個人的困窮、説教者の個人的困惑が問題なのではなく、その務めが主の御目に重んじられているか否か、という問題こそが重要なのです。そして、預言者のことばが力を得て働くのは、それが主ご自身の啓示に基づくものであり、それを指し示す時、そこに主の力が働くからです。

だから、彼に与えられている約束が何であるかがいつも重要な意味を持ちます。僕はそれ故、自分の働きは、「ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために」与えられた職務であると、その核心を告白しています。しかも「母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形作られた主は」と繰り返して語り、生れる前からの主の御計画として、自分の預言者としての召しがあることを明らかにしています。

第3、第4の歌において、しもべを打つことが主の御心であることが告白されています。その打ち傷の中で、主への正しい訴えを止めず、主とともに生き、神とともにある自分の報酬を待ち望む彼の信仰が歌われていますが、4節はまさに、受難の僕の将来を先取りして語られています。

しかし、主はこの僕を通して、イスラエルの残りの者のシオンへの帰還を約束し、彼を通してこれらイスラエルの残りの者を集められます。その意味でこの僕のつとめはメシヤ的な使命を帯びています。そして、しもべの使命はそれのみにとどまるものではなく、主はしもべを「だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」と言われます。

この6節の言葉は、使徒の働き13章47節において引用されています。

パウロはピシデアのアンテオケで、ユダヤ人たちの妨害にあい、「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。」と宣言したうえで、このイザヤ書49章6節の御言葉を引用しております。

主の僕の受難と挫折は、彼の働きが人の目には全く無駄な骨折りのようであったかのような印象を与えます。しかし、最後まで主に信頼する彼の言葉と業は、主によって報われます。そのしもべは、イスラエルの残りの者の帰還へ導きます。しかし、それがどの様になされるかここに具体的に示されていません。

しかし、主は、この僕に、「わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」という約束を与えておられます。しもべは苦難と挫折にも、変わらない主への信頼を示し、それ通して実現する主の救いがここに語られています。それは、ペルシャ王クロスのような政治的解放による救いではなく、霊的な救いとして実現します。

新約聖書はこのしもべの歌を、イエス・キリストにおいて成就したと見ています。イエスはイスラエルに捨てられ、彼の働きが無駄であったかと思われるような方法、十字架の苦難を通して、イスラエルをその罪から解放されます。主の救いは、彼の十字架の苦難と復活の言葉を通して実現します。そして、その十字架ことばを世界に述べ伝えることによって、その救いは全世界に実現します。主の12人の弟子は、まさにイスラエルの12部族を代表し、そのことばを携え、イスラエルの失われたものを捜し求めて宣教の業に従事し、彼らもまた、主と同じように苦難と挫折を味わいますが、そのことが世界の救いに貢献します。

宣教の言葉は、つねにこのように危機に直面します。しかし、宣教の言葉の訴えの正しさ、その報いは常に主とともにあります。その報いは、苦難の中で主に信頼し、主に望を置き、主の救いを待ち望みつつ語る者とともにあります。捕囚からの解放を待ち望む者たちは、この僕を通して与えられる輝かしいイスラエルの将来を待ち望み、彼とともにその苦難を耐え忍ぶことはできるし、まさにそのような苦難の中にある彼らを慰め、彼らの救いを約束するメッセージとして聞くことができました。パウロがその宣教の危機に直面して、イザヤ49:6を引用したのも、その信仰によります。

この僕の歌は、宣教の勝利の歌です。彼の挫折こそ勝利を導くと約束します。その挫折にもかかわらず、主に信頼し続けるしもべの勝利が語られています。諸国民は、この宣教の言葉に耳を傾けよと呼び掛けられています。主イエス・キリストの十字架の苦難は、イスラエルの復興のためのものであり、諸国民の救いのためのものです。諸国民もイスラエルも主の十字架のことばによって救われます。

この僕の歌は、その救いを指し示しています。

旧約聖書講解