ヨシュア記講解

17.ヨシュア記23章1節-16節『三つのこと』

ヨシュア記23章と24章にはヨシュアの告別説教が記されています。年を重ねて老人となったヨシュアは、先ず民の長老、長、裁判人、役人たち及び全イスラエルを呼び集めて、告別説教をしました。ヨシュアはこの説教を、聴く者の心に留めようと二人称で直接語りかけます。この説教を貫くモチーフは三つあります。

第一に、主がイスラエルのためになされたことを思い出させる言葉が語られています。3-5,9-10,14節がそれに該当します。

第二に、律法を守りなさいという訓戒が語られています。6-8,11節がそれに該当します。

第三に、もし、イスラエルが従わないなら、主がイスラエルを罰せられるであろうという警告が語られています。12-13,15-16節がそれに該当します。

この説教において重要なのは、過去における主の救いの御業を想起すること、現在の在り方を問う律法を守ること、将来に主の豊かな祝福に与るために異教徒との交わりや結婚をしてはならない、という警告が語られている点です。

現代の聖書の研究者は、この単元を書いたのは申命記史家であって、その著者は、ヨシュアの遺言伝承を文学的にみがきをかけて編集を施したと考えています。すなわち、この単元は、ヨシュアの時代ではなく、バビロン捕囚を経験した民、即ちパレスチナからバビロンに移された民に、またその民のために書かれていると解するのであります。したがって、著者は服従しない民に対する神の審きとして捕囚を説明し、過去の誤りを再び犯すことのないように、同世代の民に向かって励ましを与えているというのであります。

ヨシュアが諸部族をシケムに呼び集めたと明確に述べる24章1節と相違して、この集会が行なわれた場所は示されていません。

「あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい」(11節)、という命令は申命記の特徴をなすものでありますが、それは主ご自身のその民に対する愛に基づいて語られています。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記7:8)、という言葉が11節の背後に鳴り響いています。

「しかし、もしあなたたちが背いて離れ去り、あなたたちのうちに残っているこれらの国民となれ親しんで、婚姻関係を結び、向こうに行ったり、こちらに迎えたりするなら」(12節)という言葉は、申命記史家にとって、雑婚は、異教徒の神々の礼拝に導く可能性の故に危険なものであるという認識を強く表しています。

13節の「あなたたちの神、主がもはや、これらの国民を追い払われないことを覚悟しなさい。彼らはあなたたちの罠となり、落とし穴となり、脇腹を打つ鞭、目に突き刺さるとげとなり、あなたたちは、あなたたちの神、主が与えられたこの良い土地から滅びうせる」、という言葉は、征服は完了したものではなく、継続的活動でなければならない、ということが仮定されています。この点は、士師記2章16節-3章6節において、より十分に明らかにされています。

申命記史家は、過去に表された主の恵みを忘れやすい人間存在の根源にある問題をこの単元において明らかにしています。現在の悲惨と苦悩の原因は、過去に表された主の救いの御業を忘れ、神の御言葉に聞き従わず、異教の神々を恋慕うことの罪の内にあると見ています。

そして、「わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らねばならない。あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した」(14節)、と語り、十戒の第一戒から第四戒までに示されている律法の精神を常に覚え、主をのみ愛して従う者とならなければ希望ある未来を切り開くことができないことを、預言者たちが語った言葉を想起しながら明らかにし、そこになお命に至る道が残されていることを示しています。

イスラエルに示された主の道は、主の言葉に聞き従う者への祝福の道と、主の言葉に聞き従わないものに下される約束の土地からの追放と滅亡の道のいずれかであることを、15,16節において、「あなたたちの神、主が約束された良いことがすべて、あなたたちに実現したように、主はまた、あらゆる災いをあなたたちにくだして、主があなたたちに与えられたこの良い土地からあなたたちを滅ぼされる。 もし、あなたたちの神、主が命じられた契約を破り、他の神々に従い、仕え、これにひれ伏すなら、主の怒りが燃え上がり、あなたたちは与えられた良い土地から、速やかに滅び去る」、という言葉で示されています。

これらの言葉は、国の滅亡と捕囚という悲惨を経験している者にとって、現在の悲惨の根本的な原因が、本来、命に至る道として与えられていた主の律法、主の言葉に聞くということを大切にしなかったことにあることを明らかにします。しかし、その審きと現在の悲惨の根本原因が主の言葉への離反という事実にあることを認識し、心を神に向け、主の言葉に根源的に立ち帰って聞く者となるならば、再びよい土地に戻ることができるという希望のメッセージが含まれています。イスラエルの民はその様に聞くことができました。ですから、この審きの告知には、同時に、主の言葉の前に心を低くし、悔い改めて、再び主の言葉に聞く者としての歩みを始める者に命への回復が約束されていたのであります。
その意味で理解するなら、今日の教会でなされる神の言葉の説教をどう聞くべきかが、わたしたちに向けられた神からのチャレンジとして示されていることを真摯に受けとめる必要があります。

旧約聖書講解