エゼキエル書講解

15.エゼキエル書17章1-24節『二羽の鷲とぶどうの木』

二羽の大鷲のたとえは、動物行動の特徴を描写するためのものではありません。動物や植物を擬人化して人間のようにふるまわせ、人間の行動や振る舞いを教示しようとしています。大鷲がレバノン杉やの梢を切り取り(3節)、ぶどうの木を植える(5節)行動を取ることは現実にはあり得ないことです。ここでも15章と同じように、寓話によって歴史に起こった事態の意味を説明する方法がとられています。この比喩で用いられている大鷲は、バビロニアのネブカドネツァル大王を表し、レバノン杉の大木はダビデ王家を象徴しています。「もう一羽の大鷲」(7節)とは、エジプトの王であり、そのエジプトの助けを得てバビロニアの軛を脱しようとしたゼデキヤの愚かな試みが風刺されています。

ヨヤキンの後継者として立てられたゼデキヤは、王家の血筋から言えば傍系に属しますが、ここでは、「若い枝」としてたとえられています。ダビデ王朝の正系に属さないゼデキヤは、王家の正系に属するものに対してその支配を貫くために、彼にとってのその上位の主人との善隣関係は不可欠と考え、そのように行動しました。ゼデキヤは、ぶどうの木として、杉のような誇らかな独立性を持たず、低木として従属の地位に甘んじねばなりませんでした。しかし、豊かな水のほとりに植えられることによって、生い茂るようになりました。彼を庇護してくれる者の意思によって、交流する国家に君臨する前提条件がそれなりに準備されました。エジプト方面の帝国の国境に接するシリアの諸国は常に不穏な動きをしていました。その一角にあって強固にバビロンに恭順の意を示す一侯国ユダ(ゼデキヤ王)の存在は、ネブカドネツァル自身の関心に沿うものでありました。

それだけに、ゼデキヤがバビロンの敵対者であるエジプトと結んで、より大きな利益を得ようとその庇護を求めたことは、大王ネブカドネツァルの逆鱗に触れることになりました。ゼデキヤの時代から百年前のヒゼキアと同じような行動を取り(イザヤ28章以下)、ゼデキヤは被抑圧的な封臣の地位から解放されて国家の独立を勝ち得たいという願望によって、シリアに隣接する国に依存したり、それを翻したりする危険な賭けを繰り返していました。エゼキエルは、イザヤと同じように、このゼデキヤの行動を危険極まりないものと見ていました。ゼデキヤは、当然の報いとしてバビロン王の復讐を受けることになりました。

9節において、主なる神の言葉として、ゼデキヤのこの行動に対し、「このぶどうの木は成長するだろうか。その根は引き抜かれ、実はもぎ取られないだろうか。芽生えた葉はすべてしおれてしまわないだろうか。」という問いが立てられ、「それはしおれてしまう。それは根から引き抜かれるのに、大きな力も、多くの人も必要ない。」と答えられています。10節においても、同じ内容の主なる神の自問自答の言葉が続いています。

9,10節における主なる神ヤハウエの自問自答は、ヤハウエの意思を表すものであります。それゆえ、ゼデキヤの行動は、バビロニアの王への反逆である以前に、主なるヤハウエの意思に真っ向から対立するものであり、神に対する冒涜であり、挑戦であったことを明らかにしています。

そして、これらの寓話の意味、解釈が11節以下に施されています。預言者エゼキエルは、その聞き手であるバビロンの地に捕囚とされた民に向かって、これらの出来事の意味を説明しています。

預言者エゼキエルは、まず13節において、ゼデキヤの行動をバビロンの大王に対して行った誓約違反として、その罪を告発しています。そして、19節において、このバビロン王に対しゼデキヤが軽んじたのは、主なる神の言葉として、「わたしの誓い」と「わたしの契約」に反するものであることが明らかにされています。これらの主の言葉は、ゼデキヤが反逆したバビロンの大王ネブカドネツァルが、世界と歴史を支配される主なるヤハウエの僕でしかないことを語っています。それゆえ、ゼデキヤが反逆したのは、主なる神ヤハウエに対するものであり、ヤハウエの意思を裏切る罪として罰せられるべきものであることが明らかにされています。

ゼデキヤがエジプトに使者を送ったことは、彼を傀儡王としたバビロニアに対する反逆行為であり、主なるヤハウエの導きを信じての行動を取らないものであるゆえに、15節においても、「果たして、こんなことをして、それでうまくいくだろうか。こんなことをして、助かるだろうか。契約を破っておきながら、助かるだろうか。」との問いが繰り返し語られ、16節において、大王に対する誓約違反、契約違反として、必ず死ぬとの審判が語られています。

主なるヤハウエは、この不実な王ゼデキヤを網にかけてバビロンに捕囚とされます。ゼデキヤの子たちは、オロンテス河畔のリブラで殺され、ゼデキヤはその光景を自分の目で見た最後のものとして焼き付けられた後、両眼をえぐられてバビロンの地で裁かれました(20,21節)。

これらの出来事を、「お前たちは、主であるわたしが語ったことを知るようになる」という主なる神ご自身の言葉として起こったことを示し、この捕囚の出来事は、神の意志として起こったことを明らかにしています。

22節以下の言葉は、地上の支配者とはっきりと対比される仕方で、まず主なる神自らが、「若枝を折って」、移植することを告知しています。歴史を導く主の権威は、こうしてすべての民族に告げられています。

主なる神は、ご自身に対するいかなる抵抗も、反逆も、ものともされません。バビロンの大王といえども、その支配下に置かれます。バビロンは、主なる神によって立てられた支配者として、「高くそびえる山の上」(エルサレムの町)に「杉の梢」として植えられます。そしてそれは鬱蒼としたレバノン杉として、あらゆる鳥たちが宿るほどに茂ることが明らかにされています(22,23節)。

主に選ばれた「若枝」は見栄えが悪く、これに対して杉の梢は、命を与える実を満ち溢れさせ、主なるヤハウエの据えた支配者として、世界に対してその意義が与えられています。この時代の最強国バビロンが、その支配と力をほしいままに行使していましたが、それは、主なる神の支配の下で起こった、主の大いなる救いの日に向けた、一つの準備の出来事として語られています。この主にある事実を静かに受け止め、捕囚民は現在の苦しみに、希望を失わないで見ることが求められました。

野の木々は、驚嘆しつつ主なるヤハウエの業を認めます。このバビロンの背後にあって、バビロンを超えて世界を支配する主がおられることを示すことによって、ヤハウエは世界の上に君臨する王なるお方であることが明らかにされています。

捕囚の出来事は、主の民イスラエルにとって屈辱的で、まるで自分たちを選ばれた神の無力を思わされるほどのショッキングなものでありましたが、その事態を支配し導かれるのが、主なる神であることが示されることによって、そこからの回復の道も主が用意されるという信仰への目覚め、希望の転換も用意されることになります。現代のグローバル世界の中で、強者と言われる人々の間で翻弄されて生きる主の民とされた一人一人に、同じ神の支配と導きが与えられています。

旧約聖書講解