ホセア書講解

8.ホセア書3章1-5節『神の愛による回復』

3章は「主は再び」という言葉で始められている。これは、1章で述べられていないことを、補う意味で記されているのでないことを示している。背信の民イスラエルに対する、変わらぬ神の愛を示す、神の新たな啓示の始まりを告げる言葉である。

ホセアは「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」と告げられている。この女性とは1章2節に「淫行の女」として登場するゴメルに他ならない。1章では、ホセアがただ「淫行の女をめとり、淫行の子らを受け入れよ」と主から命じられ、その命令にしたがったことだけが記されている。ホセアのこの女への愛の感情はどうであるか、ということは一切語られていない。「めとり…受け入れよ」という言葉には、「姦淫の女」と「姦淫の子」とを丸ごと愛せよという命令、それは預言者には耐え難くても聞き従うことが求められている、そういう言葉の響きが感じられる。

しかし、3章1節では「夫に愛されていながら」という言葉があるので、ホセアは最初がどうであれ、あのゴメルを本当に愛した、という事実が前提にされている。それにもかかわらず、ゴメルは相変わらず夫の愛を裏切り、他の男のところに走り、「姦淫する女」の生活を止めなかった。ここに、ホセアの彼女への愛が失われていないだけ、その苦悩がどれほど深かったかを窺い知ることができる。ヤーウェはそのホセアの苦悩を知りつつ、「夫に愛されていながら姦淫する女(ゴメル)を愛せよ」と再び命じる。

この人間ホセアの姦淫の女への不変の愛こそ、背いたイスラエルへの神ヤーウェの不変の愛を象徴している。その不変の愛(ヘセド)によって、民を立ち帰らせようとするヤーウェとはどういう神か、ホセアは自らの苦悩の結婚生活を通して、その妻への自分の変わらない愛を通して、啓示する器として用いられる。考えれば、ホセアは実に割に合わない役柄を担わされている。

しかし、ヤーウェは、過ぎ行くもの、滅び行くものの報われない愛、その苦悩を通して、ご自身の不変の永遠の愛を啓示される。ホセアは、このヤーウェの愛を啓示する器とされることに、不平を言わずに黙々としたがっている。この啓示を担う担い手の自己犠牲を超える、民を救うことに払う神の犠牲の大きさを見たからであろう。それをホセアは「イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」という主の言葉から聞きとってている。

ホセアがこの屈辱に満ちた主の命令に聞くことができたのは、自らその姦淫の妻を愛しているというのも、報いなしに罪人に与えられる、神の計り知れぬ、朽ちることのない永遠の愛を根拠に出された命令であることを知ったからである。ホセアの姦淫の妻への深い愛だけでなく、彼の告示を貫いている優しさの究極の根拠は、このヤーウェとの人格的な体験の内に見ることができる。

2章の、審きをとおしての救いに至る神の道を語るホセアの告知も、結局のところここからしか理解できない。

ホセアはこの3章でも、イスラエルの民の宗教的特徴を他の神々への堕落にあると見ている。「干しぶどうの菓子」は、バアル宗教の祭儀で用いられたもので、これは、ヤーウェとの霊的・内的な交わりと対立する、カナン宗教の感覚的享楽的な交わりの側面を強調するものとして言及されている。イスラエルがそういうものに心奪われていても、主はなお彼らを愛している、とホセアへの命令を通して告げる。

ホセアはこの神の愛の故に、己を棄て、神の命令に聞き従った。ホセアの目は、神の心に対して開かれていた。だから聞けた。奴隷一人分の買い値は銀30シェケルといわれる。ホセアは「銀十五シェケルと、大麦1ホメルと1レテクを払って」買い取ったと言われている。それは、奴隷一人を買う場合の代価を示している。奴隷一人を買う額の半分のお金と、残りの代価を現物支給した計算になる。つまり、妻のゴメルは、自分を愛する男に奴隷として売っていたのである。それをホセアは、その男から代価を払って買い戻したのである。自己犠牲をして、代価を払って罪の女を買い取るその愛は、主イエスの十字架の血による代価を払っての救い、を指し示す出来事である。

「罪の奴隷」の贖いには、自己犠牲を払い、代価を払って買い戻すことが必要であることを、ホセアはその行動を通して啓示したのである。

ホセアは、買い戻した妻に「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる」と告げている。ホセアは、妻が長い間なじんだみだらな生活を遠ざけさせ、悪習をやめさせ、不信ではなく真実の愛に目覚めることを願い、深い愛をもって完全な結婚生活に戻るようしつけているのである。

「わたしもまた、お前のもとにとどまる。」この言葉の響きを聞き逃さないことが大切である。この不変の愛こそ、真の悔い改めを導くのである。

1-3節までは、ホセアの象徴的な個人的体験と行為であるが、4-5節はそれに対する預言的な解釈である。

ホセアは自らの愛において、またそこから生まれた妻の教育のための処置において、神のその民に対する支配を、理解し、学んだ。4-5節の預言は、ホセアが、自らの結婚の象徴行為を解釈したものである。

「長い間」、民が王も高官ももたないことは、イスラエルの民が国家・政治組織から離れることを意味する。そのような手段を頼って民の繁栄を求めることからの中断を意味する。「いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく過ごす」ことは、宗教的交わりから遠ざけられることを意味するという注解者もいるが、それは、カナン化したイスラエルが、カナンの地の祭祀的習慣から離れることを意味している。ホセアは、民をカナンから背かせる。そこにカナン文化のいとうべき影響を認めたからであった。イスラエルはカナンの環境を出て、その地の汚れた影響を脱せねばならなかったのである。「聖なる柱」はバアル神の象徴的なものを示し、エフォドは祭司が占いを行うために身につける祭具であった。テラフィムは人像で、家の神の像として用いられていた。ホセアは、これらの異教的な祭具や風習が、真のイスラエルの宗教のあり方を崩壊させるものとして捉え、そこから引き離そうとしたことでイスラエルの歴史において重要な役割を担っている。

しかし、偽りの宗教から人を遠ざけて救いが達成するのではない。その宗教が持つ政治・文化・祭祀に与えている魔術的影響力、からの民の解放は、神が実際にいかなる方であり、民の生活にとってどういう意味を持つのか、再び民の目に明らかにされなければ本当の救いは来ない。

神の審きは、教育的な意図を持つ。裁くことが目的ではない。審きは救いを目指している。神へ立ち帰ることを求めてのものである。ヤーウェが、一切の人間的・地上的な支えを打ち砕かれたとき、イスラエルは、その生を神にだけ負うていること、ヤーウェだけが「彼らの神」であることに気づかされるのである。それ故、ヤーウェこそが真の拠り所であることに気づくのである。5節の「と王ダビデ」は、ユダ側に立った編集者の付加である。

イスラエルは、神の圧倒する審きの力の前に、異教宗教の無力と、自らの無力を知らされる。しかし、その神の力こそ恵みにほかならない。神は、この民を回復するために、大きな自己犠牲を払われる。自己犠牲を払って、愛し続けられる。その恵みに目覚めた民は、真の神への立ちかえりを、畏れをもって行う。

「主とその恵みに畏れをもって近づく」は、霊的礼拝を意味している。異教的・感覚的な宗教物を導入する神礼拝ではなく、霊と真をもって礼拝する(ヨハネ4:23-24)ことが整えられることを意味する。その実現は、「終りの日」であるから、やはり神の介入による審きと、完全な救いの現れの日にほかならない。ホセアの結婚生活の苦悩を乗り越える力は、神への献身を通して与えられる。神の愛、民への救いの深い意思を知り、その神に己の存在を委ねきる信仰を獲得したときに、ホセアは、姦淫の妻ゴメルへの愛と救いに希望を持てた。

それは、わたしたちの地上生活における、あらゆる戦いについて言える。神よ何故、と問いたくなる事柄の中にも、イエス・キリストにおいて担われている愛を知らずして、人はその「何故」を受容することはできないからである。

旧約聖書講解