ホセア書講解

17.ホセア書8章1-14節『イスラエルへの警告』

本章は断片的な預言を集め、一つの大きな詩の形で統一されている。これは編集の結果であると思われる。①1-3節の契約の破棄という主題のもとに語られるこの部分は、本章全体を総括している。4節以下の他の短い言葉の塊は、それぞれ独自の主題を持っている。②4節後半から7節は、偶像に、③4節の前半と8-10節は、王国と王国が外国の助けを借り、媚びを売ることに、④11-13節は犠牲の祭儀に、⑤14節は宮殿と堅固な町の建築に、対しての預言である。

 

①契約の破棄(1-3節)

ここで預言者は、主の見張人として、「角笛を口に当てよ」と、「主の家」に危険が迫ってくることを知らせるために、警笛を吹き鳴らせとの命令を受けて語っている。「主の家」とは、イスラエルをさし、「鷲」で象徴される危険は、アッシリアの来襲を指している。侵入してくる敵に関する恐るべき報せ(3節)を広めることは、困難な任務であるが、預言者は、そのために神に呼び出された存在であることを、ホセアは自覚している。神は、理由なしに罰せられない。イスラエルは、契約によって「主の民」とせられた存在である。だから、アッシリアが「鷲」のように「襲う」という警告は、民がその存在の根拠である神の契約を破り、「律法」を守らないので、神の助けを失ったことを明らかにする審きとして語られている。

民は、「わが神よ、我々はあなたに従っています(ヘブル語は「知っています」)と繰り返し告白し、神に対する義務も知っていると告白していた。しかし、真の告白は、口先の告白ではない。ホセアと同時代の預言者イザヤは、「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ」(イザヤ29:13)と語り、口先だけでない生きた服従の必要を告げているが、ホセアも同じ所に立ってこれを告げている。神は、口先だけの告白に欺かれることはない。神の判決は、自ら立てた契約立って下される。イスラエルは、善(恵み)を退け、神の命令を守らなかった(3節)、だから神は、その歴史支配を通して、イスラエルの罪を裁かれる。「敵に追われるがよい」とは、背信のイスラエルに下される、神の審判の言葉である。それは、神の行為の持つ必然的な論理によって、民の上に下ったのである。「わが神よ、我々はあなたに従っています」という言葉は、元来、神の恵みと助けを求める時に用いる言葉であった。そして、イスラエルが神の善(戒め)を守るとき、「生命」が約束され、それをはねつける時、「死」が約束される(アモス5:14)。しかし、イスラエルは善(すなわち神)を受け入れなかったので、「敵に追われ」敗走するものとなった。イスラエルを追う敵とは、アッシリアであるが、ホセアの関心は、どこまでも神の審きの行為としてそれが起こったことに向けられている。

そこに、悔い改めの可能性と、悔い改めた時の希望が同時に示されていることを、聞く者は悟らなければならない。

 

②偶像批判(4節後半-7節)

王国分裂後、北イスラエルの最初の王となったヤロブアム一世は、自らの権力の正当性のために、主のための祭壇を築き、金の子牛像を造った(列王上12:25以下)。そして、それを造った時は、ヤーウェの台座のつもりであったかもしれないが、後に偶像となり、ヤロブアムの罪は、偶像礼拝の罪の代名詞として、聖書には記されている。イスラエルにおいて、カナンのバアル宗教を真似て、生殖する生命力の象徴としての動物の像による神表現は、ヤーウェ礼拝とバアル礼拝との混同、ヤーウェ宗教のバアル化を引き起こす原因となった点で、特に問題であった。

ホセアは、金銀でいかに立派に作られた子牛像であっても、それは「職人が作ったもの」でしかない事実を指摘(イザヤ41:7,44:9以下)し、その神的な高貴さを剥ぎ取り、呪術的性格を奪い去る。偶像は、人間の手によるかりそめのものでしかなく、壊れて散る運命にある。真の神は、このような感覚的呪術的な宗教から生じた偶像崇拝と最も遠い対極におられる、これが、ホセアの預言の中心にある。

これを4節前半と結びつけて読むなら、イスラエルの政治は空しい偶像に頼ったので、イスラエルの滅びの原因になり、粉々に砕かれる運命にある、ということになる。

7節で、ホセアは格言を用いて、人はその行ったことから免れ得ないことを語る。偶像が虚無であるように、虚無の上に築かれた宗教生活も国家の歩みも、共に虚無に帰し、破滅を自らのうちに秘めている。ホセアはそれを、「風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る」という比喩で語る。そして、たとえ「芽が伸びても、穂が出ず」、あるいは豊作で収穫があったとしても「他国の人が食い尽くす」と語る。無力な偶像に頼ることも、外国に頼ることも共に、その根本に神信頼ではなく人間の手による幸福観があり、その最後の無益さを、ホセアは明らかにしている。

 

③王国と外国との関係に反対して(4節前半、8-10節)

4節前半において、ホセアは、当時の政局を考察し、王が次々に暗殺されて、民の最高指導者である主に相談もしないで、新しい王が油を注がれたことを指摘している。イスラエルにおいて、正式に油を注がれて王となったのは、イエフが最後で(列王下9:6)、その後に続く王は、皆クーデターによってその座に就いた。ホセアは、その座が全くの政治的な権力闘争の場になっていることを指摘する。「それはわたしから出たことではない」「わたしは関知しない」という主の言葉で、その権威を自身の力だけで持っていることを明らかにする。それは、旧約聖書の王国観にある、神の選びにより神に責任を持つ権威ではない。

そのようにして、権力を得た者が、その権力を正当化する手段は外交策であった。同じような力の国同士による同盟や、強国との臣従関係による権力保持に躍起となっていた。しかし、そこから革命と王位の交代が繰り返される。このような政治の末路を、ホセアは鋭い皮肉をもって「イスラエルは食い尽くされる」と語る。北のガリラヤと南のギレアドは、もぎ取られて、アッシリアの一州となった。民は独立を失い、最後の王となったホセアはティグラテピレセルの傀儡王でしかなかった。このように、民の威信も尊厳も独立も、他の諸民族の間に消滅してしまった。エフライム(イスラエル)は、もはや誰にも気にとめられない、無価値な容器のような存在でしかなかった。イスラエルの民は、政治的役割を果たし終えた存在となった。

そして、大国アッシリアの恩顧を得て、維持するために、イスラエルはアッシリアに貢物を持つ使節を送らねばならなくなった。エフライムは、強情な野生のロバのように気ままにさ迷い、主の意に反して他国と同盟を結んだ。ホセアは、残骸国家エフライムの悲惨な状態を、辛辣な言葉で批判する。その対外政策の品位の無さを、金で娼婦の愛を求める情夫と比較して語っている。エフライムは、諸民族に助けを求め、愛の報償を期待して走り回ったが、娼婦に愛を期待するのが間違っているように、エフライムの努力が無駄であるばかりか、その結果は、独立を失い、民は頼った諸民族に服属し、その中に分散させられるという結果をもたらす、とホセアは語る。

10節の翻訳は一語の母音をわずかに修正して(「始める」というヘブル語を、「苦しむようになる」)読んだものであるが、別の二語を修正して、「わたしはまもなく彼らを散らす(他の国々の中に)。彼らは王や司たちに油を注ぐことをしばらくやめるであろう」と解する学者もいる。この方がむしろ、ホセアの預言の意図を正確に伝えているかもしれない。

ホセアは、歴史の内的な因果関係を見ている。それは、ホセアにとって、神の審きである。神は、歴史とその必然性において、自分とその民の運命を自由にすることができると信じている者に対して、その意思を契約に基づいて貫徹される。神が審かれる時、人々は、王と司たちに油を注ぐことをやめなければならない。そのとき、神への責任を免れようとした政治は、悲惨な結果しかもたらさない。しかしそれは、正しい、当然の終りを見出す、という皮肉をホセアは語る。

 

④犠牲祭儀への批判(11-13節)

イスラエルは、政治的・文化的膨張とあわせるように、犠牲の祭儀や祭壇の建設を、各地に行っていた。それは、「罪を償う祭壇」として造営されたが、ホセアは「それは罪を犯す祭壇となった」と断罪する。祭儀を盛大に行うことが、真の信仰で活き活きとしているということはできない。祭儀が道徳的・宗教的義務にとって代わり、神への内面的繋がりと神への責任意識が枯渇していく時、祭儀は自己願望の手段でしかなくなる。祭儀が自己目的化されると、民はいくら戒めを持っていても、人間の心と行動を支配する神を、もはや理解しようとしなくなる。そして、神の戒めを、自分たちとは無関係なものと感ずるようになる。

ホセアは、エレミヤと全く同じところに立って、自己目的化した祭儀を批判する(エレミヤ7:21-25参照)。祭儀は、感覚的・物質的な享受の手段と化し、「殺戮」と「肉を食うこと」だけが関心となっていた。ホセアは、礼拝が道徳的・宗教的義務の補償の場ではなく、神の意志の厳粛さが額面どおり意識され、実現される場であると告げている。たとえ民が祭儀の間、神の本質を忘れることがあっても、神は祭儀において現れる罪を忘れず、審きによってその意思を実現される。

ホセアは、神の命令と審きを、旧約の契約の伝統に立って語る。「彼らはエジプトに帰らねばならない」という言葉は、特別な響きを持っている。エジプトは、イスラエルが奴隷の苦役に苦しんでいた地である。神は、イスラエルを解放し、契約に基づきカナンを与えた。にもかかわらず、契約の言葉に聞き従わないなら、「彼らはエジプトに帰らねばならない」。この場合、エジプトは奴隷の地を象徴する言葉として語られ、神の審判はそのようになされる、ということが言外に意味されている。

 

⑤堅固な宮殿建設に対して(14節)

ヤロブアム2世の時代、壮麗な宮殿が建築され堅固な城郭建設がなされた。しかし、そこにはうわべだけの見せかけの繁栄しかなく、神を無視し棄てようとする、無軌道で衝動的な不逞に満ちていた。バベルの塔建設ように、自らの被造物性を忘却し、自らを創造者として生の危険性を守ろうとする、人間のおごり高ぶりを表現するものとして(創世11:1-9)、ホセアはそのあり方を批判する。ホセアにとって、人間が人間であることは、創造者に依存して生きることにほかならない(創世3:11)。ホセアは、自らを自らの手で守ろうとする同時代人の生き方、自意識の中に、神の忘却を見る。それは、まさに、異邦人の生き方でしかなく、主の民の生き方、そのあり方を忘却したというほかない。だから、外国の民の託宣に用いる言い方で(アモス1:3 以下)、威嚇の言葉を告げる。自ら高ぶり、創造者を忘却して生きるイスラエルは、もはや「神無し」に生きる外国の民と何ら変わることがない。ホセアは、そのような「神無し」の文化に迫っている破滅を「火は城郭を焼き尽くす」、という言葉で告げる。

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