詩編講解

62.詩編127篇1-2節 『主が働かれるのでなければ』

詩編127篇は、128篇と共に結婚式の時によく朗読される詩篇です。それは、特に人間の実際生活が神の働き祝福を受けることによってなり立つことを歌っているからであります。しかし、この127篇は、もともと1-2節と3-5節の部分は全く別の詩でありました。1-2節は、人間の生活における神の支配の意味を強調しているのに対して、3-5節は、子供の数が多いことに含まれる神の祝福を賛美する詩篇であるからです。ですから、今日は、1-2節だけを取り上げ、この詩篇が教える人生の労苦の意味と神の働きの持つ意味を共に学びたく思います。

この詩は以下の言葉で始まっています。

「主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。
主御自身が守ってくださるのでなければ
町を守る人が目覚めているのもむなしい。」

家の建築と町の防衛は、人間の生活の基盤になる家を建てる業と、それらの家が集まり、共同体の生活がいつまでも存続し、敵からの攻撃から守るために、城壁の周りに昼夜守る人を配置する人間の周到な努力とを表しています。そして、この二つは人間のあらゆる労働と心労を象徴するものであります。

しかし、いかにそれらについて周到に準備したとしても、その業を主が導き、主が守ってくださるのでなければ、一瞬のうちに無に帰してしまうということが起こります。

詩人がこれらの言葉において一生懸命訴えようとしていることは、人間の実際生活における神の働きが持つ決定的な意味であります。詩人はこの一点に集中して目を注いでいます。それゆえ、神の働きを考慮に入れない骨折りと心労はすべてむなしい、というのであります。このように,こころを徹底的に神のみに向けていく時、人間的なものの意味は無に帰します。人間の神を忘れた行動に対して、詩人は三度「むなしい」という言葉を繰り返しています。

時に人間は、食べることや豊かに生きることのみを目的にして労働に向かい、また人生の多くの問題で思い悩みます。そして、その労働と心労のゆえに人生における神の支配と働きに目をやることを忘れる態度をとることがしばしば見うけられます。その様な生き方をしている者に、徹底的にその方向を返させようと詩人は語りかけているのであります。

しかしだからといって、この詩人は、労働が余計なことであるといっているのでありません。詩人は、人間の手の業なしに家の建築ができない事を知っています。町の夜回りのつとめをないがしろにしても、不意に襲ってくるかもしれない敵の攻撃から何の害もなくいられると考えているのではありません。

詩人がこの詩において歌っているのは、人間の労働一般の問題ではなく、神を度外視することができるように思う、そういう労働への態度、取り組みの問題であります。何事も人間だけで成し遂げられると考える神への不信と、自己過信から生じる結末の空しさを、詩人は警鐘しているのであります。

人間の労働の実、その労苦に伴う心労、そのすべては神の審きの下にあるという信仰からでない、労働への態度は人間の思い上がりを生み、人生の歩みを誤らせる、というのです。

詩人は、人間の神への正しい態度のあり方を、神の前に自分の価値を主張することを放棄し、無力を知ることから始まると理解しています。その労働の業がどんなに大きいと思えるものであっても、またその心労がどんなに大きく感じられるような時にも、神の前に信仰の目で如何に小さく無意味なものであるかを知ることが大切であると詩人は考えているのです。なぜなら、人に命を与え生かす方は神であり、神無しにはすべて労働は徒労に終わり、心労は不安な思い煩いに終わります。その業と心労のすべてが神の祝福の下に置かれていることを知らない人間の心には平安はないからであります。

朝早く起き、夜遅く休み、人一倍真面目に労苦する熱心な働き人、骨折ってパンを得る人の働く姿は、すがすがしいものであります。しかし、神を信ずる信頼の思いの中で生きないのであれば、その労苦には安らぎがないというのであります。

神の祝福は人間の思いとしばしば別なところに隠されています。詩人は、人間の目には隠されている神の支配の確かさを、「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」という言葉で表しています。このところをフランシスコ会訳聖書は、「主は、愛する者が眠っている時でさえ、お与えになる。」と訳しています。こちらの訳の方が良いと思います。

人間の骨折りと思い煩いとは反対に、隠れた主の働きによって、わたしたちの主を信頼しての労働と人生のあらゆる心労とが祝福を受けているといわれているからであります。

わたしたちの人生、生活のすべては、究極において神が働き、事柄を成就されるのだという主への信頼の中で、その日その時を精いっぱい生き抜いていく時、空しさを感じることなく、満たされていくのであります。

この大切な中心を見失わない歩みとなるよう、互いに主を見つめつつ、励ましあいながら歩む、信仰の共同体でありたいと切に願います。

旧約聖書講解