士師記講解

5.士師記5章1-31節『デボラの歌』

デボラの歌は、古代の言語で書かれていて、士師記の中でも最古の資料であると言われている。目撃者が生き生きと物語り、戦争の騒音、野戦の音楽、嵐の中の雷鳴、洪水の押し寄せるさまが鳴りひびいていてくる。

ヘブル詩の特徴は対句性と韻律という二つの観念の上に組み立てられている。対句法によって詩の二重の行構成が示され、第二行目は第一行目の思想を他の形式乃至イメージによって繰り返すか、或いは第一行の思想を越えてそれを拡大したり拡張したりするか、或いは第一行の思想の対照的思想を表現する。この例として、19、20節を挙げることが出来る。

王たちは・・・戦った。
カナンの王たちは戦った。

もろもろの星は天から戦いに加わり
その軌道から、シセラと戦った。

というように、第二行は第一行の思想を拡大している。時々、この構成は、三行で組み立てられることもある。

これに対して、韻律とはヘブル語のアクセントが一つの構成上の形式を作り、それが後続の行で繰り返される。

この歌は主に対して讃美を鳴り響かすことで始まっている。2-5節までこの讃歌は続く。主はご自身をモーセに示しその民と契約を結ばれた場所、シナイ山に住んでおられるものとして描かれている。主はセイルを出て、エドムへと進むという表現は、申命記33章2節のモーセの歌の中にも見出せる。神はシナイの山において現臨され、これは後にはケルビムの間にある恵みの座の契約の箱における神の現臨、或いは神殿の至聖所に神が特別に住まわれるということと関係づけられるが、これらは、すべて主イエスの受肉の予表となっていると理解することができる。神がイエス・キリストにおいて現臨し私たちの間に住み交わってくださるという救いの出来事は、旧約時代においてはシナイ山や神殿における神の現臨という形で表されている。

このデボラの歌において目立っている、また重要な神の臨在の思想は、神はシナイにおいてだけでなく、20節に示されているように星がくだって来て、イスラエルのために戦うごとく宇宙をも支配し、カナンにおいても変わらない臨在と勝利をイスラエルにもたらされる、という思想である。この神の契約における愛と変わらない臨在と導きこそ、イスラエルの救いの希望である。

十字架の主が死ののちに、主を信じる者の初穂として復活されることによってもろもろの悪の力の見せかけの勝利を空しくし、真の勝利をもたらされたように、イスラエルはカナンにおける度々の敗北にもかかわらず、主により頼むとき、主の勝利を経験することが出来た。主の臨在なくして勝利なし、これがこの歌の中心に流れている重要な思想である。

歌は6-8節において、圧政者の下におけるイスラエルの悲惨な状態を歌っている。イスラエルの背教はイスラエルの安全を奪った。旅行も農耕も困難となり、イスラエルは大きな悲惨を経験する。カナンの神々に従ったイスラエルは幻滅を味わい、霊的にも実際の武力の点でも無力をさらけ出し、カナン人が彼らを支配し、圧迫し、イスラエルは彼らを恐れながら歩んでいた。このような状態にあって、神はデボラを起こされた。デボラが現れるまで、カナンの圧迫はやまなかったと歌われている。

9-18節において、諸部族の招集、諸部族への賞賛と非難が歌われている。しかし、最初の3節はヘブル語の本文が曖昧である。ここに戦いに参加した部族、また参加しなかった部族のリストが掲げられ、賞賛と非難とがそれぞれの部族に与えられている。エフライム、ベニヤミン、マキル(これはマナセの主要部族である)、ゼブルン、ナフタリ、イサカルの六部族が戦いに参加したとして賞賛されている。これらの部族はシセラの支配によって最も影響を受けた北方カナン地域に位置していることは、地図を見ればすぐ判る。

ルベンは心が定まらず、優柔不断な態度を取り、ギルアデはヨルダンの向こうに住んで戦いに加わらず、ダンもアシュルも助けることを拒んだと言われる。4章6節で言われている通り、18節において、ゼブルンとナフタリの勇敢な戦いぶりが特に賞賛されている。

士師記において、イスラエルの十二部族が一致してカナンでの戦いを行ったという記録はない。その意味で言うなら、このデボラの歌での戦いの記録は例外的に北の部族の一致した戦いを記しているということで、特別重要な意味を持っている。単に共通の強大な敵が現れたという実際上の理由以上に、これらの部族がデボラを通して語られる主の契約と臨在の導きの確かさへの信仰を思い起こし、戦い、勝利したというところに大きな意義がある。

この勝利は軍事的団結によってもたらされたのではなく、契約に対する主の誠実な愛とイスラエルに対する臨在を示し、先立ち戦われたことによってもたらされたのである。

19-22節において、戦いの場面が描写され、歌われている。イスラエルの神はシナイからセイル・エドムを越えてカナンにまで、イスラエルとともにやって来て、戦車に乗られる嵐のようにシセラの軍勢と戦われイスラエルに勝利をもたらされる。神はこの嵐の中に臨在を示し、イスラエルを助け導かれたのである。主はシナイにおいても、カナンにおいても、何処においても臨在し、助けることができる。この信仰の理解を持つことが、大切なのである。

23-27節において、メロズの失敗とヤエルの手柄に対する賞賛が歌われている。主はひとりの女をさえ用いて助けることも出来る。主は自然だけでなく、この歴史の中で人の心と知恵を支配し導かれる摂理の神でもあられる。聖霊は人間の知恵を支配し、またこれを用いて、事柄を成就されるお方である。ヤエルの物語は倫理の問題に関心を示していない。デボラの預言が彼女によって成就したこと、この事件の手柄が、デボラやバラクよりも、この女性に帰せられているところに、人を誇らせない主の知恵の深さが隠されている。

主の知恵が表されるところには、同時に人間の愚かさと惨めさが表される。28-30節において、シセラの宮殿でシセラの帰りを待っている母の惨めな姿が描かれている。息子が勝利して凱旋して帰って来るのが遅いと思ってもどかしがって待っているその姿が、実に劇的に哀れに描かれている。女官たちがシセラの母を慰めようとして語るその言葉が、一層空しく広い宮殿を響きわたり、人間の希望のはかなさが歌われている。宮殿を支配する希望の一方で、シセラは死んでいる。真の神、主を頼りにしないこのカナンの王は、一切の人間の期待を裏切り、ひとりの女の手によって死んだ。この逆説がまたこの歌の面白さでもある。

しかし、何よりこの歌を際立たせているのは、最後の言葉である。

「主よ。あなたの敵がことごとく滅び、主を愛する者が日の出の勢いを得ますように。」イスラエルの勝利とシセラの敗北は、この祈りにこたえるかたちで実現した。真に、主の敵は滅び、主を真実に愛する者に、主は力強く朝の光をさしでるように勝利の人生を与えて下さることを確信して、この歌は締め括られている。主の前にそのように歩むものでありたく思う。

旧約聖書講解