申命記講解

25.申命記33章1ー29節『モーセの祝福』

本章の「モーセの祝福」も、申命記に付加されたものです。モーセは「神の人」=預言者として理解されています。モーセは近づいている死に際し、個々の部族の未来について預言する言葉を口にしています。非常に力ある人物の祝福は、創造的な言葉を含んでおり、未来を形づくる力があると考えられていました。この観点で、死に行くモーセの預言として、イスラエル12部族に関する言葉を理解すべきことが求められています。

2-5節、26―29節は、詩編調の詩になっています。この部分はヤハウエのシナイからの到来と、その民に与える守りという歴史的な出来事を詞で称えている限りにおいて、「告知された頌栄詞」と見なすことができます。5節をヤハウエに関係づけるなら、この詩の中心思想は、ヤハウエがイスラエルの王位につくため、シナイから到着したことになるでしょうが、そのことは断言的に言うことができません。ヤハウエ=王という表象は、他の箇所では、神々と諸々の国民の上に位置する王権として理解されていました(詩95-99)。この文は、地上の王権が、イスラエルに成立することと関係していると考えられます。

26節の表象は、カナン宗教から借用されたものである、とフォン・ラートは指摘しています。イスラエルが「離れて」住まう(28節)という把握は、諸々の国民に囲まれた中で、イスラエルの特質に関する自意識を表しています(民数記23:9参照)。

諸部族に関する言葉は、創世記49章との比較がその理解に大きな助けになります。ルベン部族はより古い時代に政治的役割を終えていた。6節の詞から読み取れることは、トランス・ヨルダンに定住したこの部族は数が減少し、近隣の敵の圧力で絶滅の危機に瀕していたということで、そうならないようにという祈願がなされているということです。

7節のユダについての詞は、執り成しの祈りとなって、王国の分裂に関係している可能性があると言われています。この語り手は、北王国から、ユダを背信の徒と見なしていた人物であると考えられます。

8―11節のレビ族についての言葉も祈りの詞です。トンミムとウリムをレビに神託を求めるために与えることを求めているならば、それは祭司職についての要求を意味します。それが危機に瀕していた可能性をうかがわせます。8節のマサとメリバの泉への言及は、出エジプト記17章1-7節と民数記20章2-13節に登場するレビ族の代表的な二人の指導者モーセとアロンに関する出来事であると考えられます。出エジプト記と民数記では民がヤハウエを試みていますが、ここではヤハウエが民を試みています。
10節によれば、この祭司職は二つの委託された権限に区分され、第一は宗教的な諸伝承を保護し、律法を教える権限で、第二は供犠儀礼の実施と、その管理の権限です。その重要な務めについてレビの正当性を裏付けるものになっています。

12節のベニヤミンに関する言葉は簡潔で主に愛されたものと歌われています。

ヨセフに対する詞は、極めて分量が多い。13ー16節は祝福の詞です。「柴の中に住まわれる方」への言及は、出エジプト記3章2節以下から解釈できますが、この言及は風変わりです。ヤハウエが本当に柴の茂みに住んでおられるのか、という疑問が生じるからです。ヨセフはナジル人として神に捧げられたものであり、明らかにその政治的優位性によって、その兄弟たちの中から選び分かたれたものです。野牛の角については、民数記23章22節「エジプトから彼らを導き出された神は、彼らにとって野牛の角のようだ」と結び付けて言及されています。17節のエフライムとマナセへの言及は、後代の注釈です。

ゼブルンとイサカルは、隣接する二つの部族で、その特異性は、タボル山における祭儀にありました。その祭儀に参与する広範囲の集団を引きつけていました。海の豊かな富については、商業交易が考えられ、「砂に隠された宝」とは、紫の染料をとるアッキ貝のことではないかと言われています。

21節にあるガドとイスラエルとの対置は注目に値します。東に突出しているという状態の為、この部族をイスラエルの外側に存在していたと見なされていたことをうかがわせます。

22、23節のダンとナフタリについての詞には見るべきものがありません。

24,25節のアシェルについての詞は祈りを持って始まっています。創世記49章20節「アシェルには豊かな食物があり、王の食卓に美味を供える」のように、ここでもその豊かさがほめたたえられています。

モーセの祝福の言葉は、創世記49章にある部族の詞とは違い、もっと遥か後の時代に起源を持つと考えられます。

創世記49章は、その詞の中には、諸部族の安定した状態が映し出されています。諸部族の政治的関係は強化され、部族間の緊張関係は全く言及されていません。それは、紀元前9世紀か8世紀初頭の時代を想起させます。

これに対して、モーセの祝福の方が、敬虔深さが際立っています。その祈りは強くヤハウエに結び付いていているからです。ヤコブの祝福の詞では、ヤハウエの名前は一度も出てきません。この一連の詞について理解するためには、生活の座について知る必要がある、とフォン・ラートは指定しています。アンフィクチオニー(士師時代に想定されているイスラエルの宗教連合)に属するここの部族について、それを詞に言い表し、集成し、あるいは声を出して朗誦するという慣習が、いつ、どこで、またどのような目的のもとで、生まれてきたのであろうか。その詞の様式が、こうした一連の詞の原型であったと実際にみなし得るならば、この原型の様式が、既にヤコブの祝福の中では、その原型は溶解過程を経ていることになると考えられる。モーセの祝福では、それが完全に背景に退いてしまっています。それに代わって、祈りの様式が、前面に出てきている、とフォン・ラートは述べています。

29節の詞、「イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。主はあなたを助ける盾、剣が襲うときのあなたの力。敵はあなたに屈し、あなたは彼らの背を踏みつける」、はイスラエルを理想化してたたえる歌となっています。

本章はフォン・ラートの註解を基にして行ってきたが、「モーセの祝福」の成立年代について、フランシスコ会訳の注解では、ダビデによって一つの王国に統合される(紀元前1000年ごろ)以前か、あるいは北と南に王国が分裂した(前939年午後)後に書かれたのであろうと解釈されています。ダビデ王国滅亡後バビロン捕囚初期の時代の申命記史家によって、「モーセの祝福」の詞が王国時代形成期に遡ることを理解した上で、編集されたとすれば、12部族すべてに対する祝福を述べる本章は、ヤハウエ信仰による国の再統一を願う祈りとして読むことができる。またそのようにモーセの詞として読むことが、イスラエルの在り方、キリスト教会の霊的一致を考える上で大切であることを思わされます。

旧約聖書講解