イザヤ書講解

67.イザヤ書61章1-3節『主が恵みをお与えになる年』

この箇所は、第三イザヤの預言者職についての召命報告にあたります。しかしそれは、60章の預言が民の疑心暗鬼を晴らさなかったので、彼は自ら語る使信が神に由来するものである事を明らかにする必要に迫られて、自らの召しについてここで語ったものと思われます。「主なる神の霊」という言い方については、アモスからエレミヤにいたる記述預言者が自らの預言者職と関連づけて語られたことはありません。これは意外に思われるかもしれませんが、偽りの預言者が霊と結びついていたのに対し(列王上22:21-24)、これと袂を分ったためではないかと考えられています。「油を注ぐ」という行為は、旧約聖書においては本来、王の就任式における聖別、または全権委任の意味を含むと理解されていますが、ここではそのような本来的な意味ではなく比喩的にな意味で用いられています。いずれにせよ、第三イザヤは、「主なる神の霊にとらえられ」主に「遣わされた」、という召命の事実こそ、民が自分の使信を聞かねばならない根拠としています。この事実は聞き手にとって、自分たちに向かって語りかける預言者の言葉を、そのようなものとして信仰を持って受け入れるとき、はじめて神の言葉として耳に響き、心に深く入ってくることになる、ということを意味します。

このように、ここに記されている預言は、希望に胸膨らませてバビロンから帰還して間のない時期、その期待を裏切られて失望落胆している困惑している民を前にして、預言者が自らに与えられているその職務を人々に明らかにしつつ語られたものです。

バビロン捕囚から帰還した人たちが、目の当たりにするのは、破壊されたままになっている神殿、復興の進まない町の悲惨な姿です。捕囚にされずエルサレムに残された貧しい人々は、町を再建しようという意欲すら持てずにいました。帰ってきた人々も最初は、再建の意欲に燃えていましたが、あまりにも変わらない状況にだんだん意気消沈していきました。帰還後の新たな希望への転換の期待が大きかっただけに失望が大きかったのです。

イザヤ書61章1-3節の預言を語った人物は、そのような現実を前にして、主にある希望を単に言葉の問題としてのみ語ることができません。『約束』だけを語り、それを聞くことを求めるということに人々の心が向わなくなっていたからです。約束の言葉が新しい事態を切り開き、語られた言葉が働き、出来事が起こるという事態の転換が求められたのです。

町の中には、貧しい人、打ち砕かれた人、捕らわれ人が多くいました。ここで捕らわれ人というのは、捕囚にされた人のことではありません。捕囚の問題は、この時代にあってそれはもはや過去のことになっていました。だから、ここでいわれる「捕らわれ人」とは、貧しくなって、多くの負債を抱え、それを返せずにいた為に、捕らえられ、獄に入れられた人々のことです。当時貧しい人たちは荒れた所に住んでいました。そこを耕すだけで精一杯の生活でありました。おまけに旱魃などの為に、しばしば不作に悩まされていました。その度に多くの借金をし、その荒れた土地さえ手放さねばならないようになり、とうとう土地をもたない文字通り無一文になって負債の残った人は、捕らわれ人となり奴隷として働かされる、そのような悲惨を味わい生きていたのです。

預言者は、そのような人々に具体的にわかる言葉で、その現実をどのように変えるべきかということを語ったのではなく、どのようにその現実が変わるかを語ったのです。主が彼らの現実をどのように変えられるのか。この言葉が語られる時に引き起こされる現実の変化を語ったのです。「貧しい人」にとって喜びは、貧しさがなくなることです。打ち砕かれたものにとって、その現実が変わることです。捕らわれ人にとって、そこから解放され、もとの地位に戻り、負債がなくなり、自由の身となることです。嘆きが喜びに変わることです。暗い心が神を賛美する喜びの明るい心に変わることです。貧しい者から不正に取りたてる悪しき支配がなされるのではなく、主の正義が行なわれ、町に輝きが戻ることです。第三イザヤは、このように貧しく苦しむ人に、よい知らせを伝えるために自分が預言者として立てられたというのです。「打ち砕かれた心を包み、とらわれ人には自由」をもたらす主にある転換を告げる預言者として立てられたと彼は語っています。

そして、「主が恵みをお与えになる年」にそのような転換が起こる、と預言者は語っています。「主が恵みをお与えになる年」という言葉で具体的にイメージされているのは、ヨベルの年のことです。レビ記25章10節に、ヨベルの年は50年毎にやってきて、その年には全住民に解放の宣言が与えられ、おのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰ることができるといわれています。現実のイスラエルの歴史の中でそのようなことが行なわれなかったのではないかとも言われていますが、ここでは、抑圧されているすべてのものの解放がなされる日のことが言われていることは間違いありません。

それを、「神が報復される日」(2節)という言葉で補われ、説明がなされていますが、これは征服者に対してなされる復讐の意味で語られているのではありません。終末の日になされる、全体の回復としての救いの意味が強調されています。それが主のわざとして起こる、主の恵みとして起こる、全く事態を逆転させる奇跡として起こるということが語られているのであります。

主イエスは、イザヤ書61章1‐2節の言葉をご自身の宣教と結びつけて、その約束がご自身の到来によって成就された事実を明らかにされました。ルカの福音書4章21節で、主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」といわれています。

この聖書の言葉が語られ、聞かれる所では、即ち、イエスの名による宣教の業がなされるところでは、その言葉が語られる「今日、あなたがたが耳にした時、実現した」という主の声を聞くことができるというのです。これを語られるお方が、それを実際に成就される主であり、そのお方が実現したと宣言したおられますので、私たちは単なる気休めの約束を聞いているのではなく、聞いている今、この瞬間に実現しているとの宣言を聞くことができるのであります。

この主の言葉が語られる場は、礼拝の場です。イスラエルの民は、まだ再建されない神殿で、あるいは会堂の中で、次の言葉を聞いたのでありましょう。

シオンのゆえに嘆いている人々に
灰に代えて冠をかぶらせ
嘆きに代えて喜びの香油を
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。(61章3節)

主の言葉に聞く彼らの現実をそのように変えられるという主にある恵みの事実を聞いたのであります。礼拝において起こるのは、そのような恵みの出来事です。嘆き悲しむ心でやってきた人が、その心に喜びの香油が注がれ、そこから帰った後も、その香油の芳しい香りをかぎながらその一週を喜びの中で過ごすことができる、そこに礼拝おいて表される主の恵みの力があります。暗い心に換えて賛美の衣をまとわされ、私たちはその日から始まる一週間を、主を賛美しながら歩むものにされる、礼拝とはそのような喜びの日々への始まり、導入の日として主の祝福の下におかれています。

それだけではありません。私たちはその礼拝に与ると、喜びの使者として、「彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる」存在として、世に遣わされます。

植物の乏しいパレスチナでは、木が植えられることは貴重でありました。シオンの住民は神に選ばれた貴重な民とされていました。そのように主はイスラエルの民を扱うといわれます。豊かな正義が行なわれる「樫の木」として、町に希望を与える堅固な家を立て、何よりその中心となる教会を立てる働きに、私たちを用いてくださるという主の約束がここに語られています。それは単なる約束ではなく、今日それが実現したという主イエスの言葉と共に、わたしたちはこの言葉を聞くことができる者とされているのであります。

わたしたちはこの年、「主の恵みと喜びを伝えよう」という標語を与えられました。主を喜び礼拝することと、主の喜びを伝えることは、一体の事として聖書に語られています。この二つは、主の民イスラエルに霊的な生命を与えるものとして語られています。そしてそのことは私たちに対しても語られています。主を喜び礼拝することと、主の喜びを伝えること、この二つのことを覚え生きる教会を主は豊かにしてくださるでしょう。主がその恵みを私たちに豊かに与えてくださることを信じて、わたしたちはこの年の歩みをはじめました。この年の歩みもあとわずかになってきましたが、今振り返ってみてその歩みはどうでしょうか。

たとえその歩みが十分でなかったという答しかできないとしても、私たちは失望することはありません。この年を「主が恵みをお与えになる年」として覚え、少なくとも礼拝の中で主を喜びとしたとするならば、伝道の具体的な成果はまだ見えなかったとしても、「嘆いている人を慰め」「嘆きに代えて喜びの香油」を注ぐ主の恵みにあずかることができたはずです。主がそのようにわたしたちの現実を変えてくださる、ここにわたしたちの真の慰めがあり、ゆるぎない平安の根拠があります。このことを信じることが何より大切です。事態や状況がなかなか変化しないように見えても、けっして慌てず、落ち着いて静かにして、主の約束を信じ続け、そのようなものとして歩み続けることが大切です。

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