サムエル記講解

9.サムエル記上8章1-22節『民、王を求める』

本章は、旧約聖書の歴史書の中でも特に重要な意義をもっています。この章において士師時代から王国時代への移行が実現し,かつその移行がどのような意味を持つかが論じられているからです。士師時代はサムエルと共に終止符が打たれます。そして、ここからイスラエルと共に歩む神の歴史の新しい1ページ、即ちイスラエルの王制の歴史がここから開かれます。そして一方で、そうならねばならない必然性が示され、もう一方で、王制に対する批判的、預言者的声が表明されます。サムエルはその批判的な声を代表しますが,彼は「キングメーカー」として時代の転換点に立ちます。本章には、王権が神によって定められた制度であることと、神に対する反逆として成立したこととが共に説明されています。王権は多くの好ましからざる条件をもたらしました。成立した王国はわずか数十年で分裂し、北のイスラエル王国は分裂後、丁度200年目の紀元前722年に滅び、南のユダ王国は587年に滅びダビデの家の支配が終わります。それは、王権が悪であるというしるしと見る見方があります。しかし、単純に解答を得ることはできません。王権は400年にわたって存続し、それは、単なる偶然によって存続しえたのではないからです。そこには多くのよいと思われる事柄も伴っていました。これは神によって定められた制度に違いありません。しかし、その歴史は王たちが民全体を、神への従順から迷わせることができることを同時に示しました。王権とは,神の審きの下にある人間の制度です(18節)。このような王権に対する二重の評価のあることを心に留める必要があります。

さて,王権の要請は、士師職の世襲制導入の失敗から生じました。「サムエルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命し」ました。長男のヨエルは「ヤハウエは神」、次男のアビヤは「わが父はヤハウエ」という意味をそれぞれもっていましたが,二人はその名に値しないエリの息子のようにならず者でした。彼らは「父の道を歩まず、不正な利得を求め,賄賂を取ってさばきを曲げ」ていました。こうした不正は預言者たちが厳しく糾弾した罪でありました(アモス5:7,10-12)。サムエルは個人として忠実に神の御心に忠実な信仰者として歩んでいましたが,その息子たちの教育については,エリと同じようにうまくなし得ませんでした。士師という職務は本来特別な賜物に基づき神から個別的に必要に応じてその都度起こされるものであるのに、人として欠け多き罪深い息子たちに世襲させようとしたサムエルの行為の中に人間の弱さを改めて見る思いがします。サムエルのような人でもこのような弱さを示すことがあります。大きな警告としてここは読まれる必要があります。

長老たちは、ラマのサムエルの下に来て、この二人の息子について苦情を申し立てました。そして彼に、「今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」と訴えました。適任でない人物による士師職(「さばきを行う者」)の世襲ではなく、公正で賄賂を取らない「裁き手」として、王職を制度化すべきだとの主張がなされました。この要請は、「サムエルの目には悪と映った」といわれていますが、神はこの長老たちの声に聞くべきであるといって、この要請の正当なこととして承認しています。

しかし、「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」(7節)という主のことばによって、神の代弁者を拒むことは神を拒むことになる、という事実が明かにされています。この同じテーマがヨハネ福音書15章18節から16章4節で展開されています。「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。」(ヨハネ15:20)と言う主イエスの言葉が神の人と神の代弁者であるその言葉を退ける者は、主を拒む者であると明瞭に語られています。そして、ギデオンは自分に支配を委ねようとした人に「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。」(士師記8:23)と答えています。イスラエル(教会)の王は神であり、誰もその位置につくことができない、という聖書の本来の主張がここに認められます。

だから「他のすべての国々のように」王を求める、長老たちの願いは,彼らの上に「王として君臨している」主を退ける罪となりました。王を持つべきだという主張は,サムエルが年老い,裁きつかさとして任命された彼の二人の息子たちの不正の事実を顧みる時、多いに同情できますが,「他のすべての国々のように」という言葉には、自分たちの上に君臨し守り導く主なる神への揺るぎない信仰ではなく、「他のすべての国々のように」人の力や武器の力により頼んで行こうとする不信仰が見られます。そこには主の声に聞き、ただ主の力と歴史的導きにのみ信頼して従う信仰の後退が見られます。この要望の中にイスラエルにおいて独自に保たれてきた信仰を変質させて行く大きな危険が含まれていました。主はこの願望の中にご自身を退けてきた過去の背教の歴史と同じ不信仰の事実を見ておられます。

異教徒である「他のすべての国々のように」王を求めることは、その偶像化の道をたどる可能性を秘めていました。しかしそれでも、神は王を求める声を是認されました。それゆえ王権をすべてマイナス面からのみ見ることはできません。

そこには、「他のすべての国々のように」ではない王を求める道の可能性もありました。神の承認の下にイスラエルはその道を探求する用意がされていたのです。申命記17章14節以下には「王に関する規定」が記され、「他のすべての国々のように」ではない、王のあり方が明瞭に記されています。そこに明らかにされている道を王が歩むなら、イスラエルは主の民としての真実の歩みをなすことができます。

しかし、イスラエルの王がそのような道を歩むことは稀でした。主はサムエルに「他のすべての国々の」王の権能を、民に教え、警告するよう、告げるよう命じておられます。

王は、軍隊に民を徴用します。戦場に行かない者は、農作業に徴用され、武器を造らせられ、作物や税の取り立ても成され、王の奴隷として王のために働かせられます。申命記5章21節に「あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない。」と厳しく戒めていますが、王はこの戒めに逆行することを当然のごとく行います。民の私的な生活にまで介入し、畑や、家畜や、作物や、さらには息子や娘さえ意のままに取り上げて行きます。しかしそれを正当な王の権利として主張するのが、「他のすべての国々」の王たちのやり方でした。

長老たちが民のために要求した「他のすべての国々のような」王とはこのような支配者に他ならなかったのです。しかし、イスラエルには実際、申命記17章14節以下に記されているように王に関する規定が定められ、王たちが「他のすべての国々のような」王たちによって権力が乱用され、絶対化されることのないよう配慮されていました。

しかし、このような配慮にもかかわらず、その規定を破る王が出現します。その王の不正義を告発し正す人間を、王の奴隷となった民の中から期待することはできません。それゆえ、神は預言者を立て、配慮されます。

サムエルは預言者として、王を求める民の悲劇的な結末を18節において次のように預言しています。「その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」

「叫ぶ」ことは祈りです。しかし、その祈りが聞かれないという厳しい現実を覚悟しなければならないとサムエルは警告しました。かつてミデアン人やアンモン人がイスラエルを虐げた時、民の「叫び」が主の憐れみを誘い、主の助けを引き出す動因となりましたが、自分たち自身の王は、そのような異民族の虐げ手とは別のし方で判断されることが明かにされました。

しかし、「民はサムエルの声を聞き従おうとせず」王を求めました。

「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」(20節)

民は単に、「他のすべての国々のように」王を求めただけでありません。彼ら自身が、「他のすべての国民と同じようになる」ことを求めたのです。神が先頭に立って戦われる民の形成を理想とするのでなく、「王が裁きを行い、王が陣頭に立って進む」国家の理想を求めました。そして、「主の戦いを戦う」のではなく、「我々の戦い」をたたかうといいます。この神を求めることを第一としない心から王を求めた歴史の始まりは、信仰を捨てる道への第一歩となりました。その第一歩は大きな背信の歴史の第一歩であって、その不信仰にふさわしい神に捨てられる歴史を自ら開くことになりました。危機的な限界状況の中で、国と人を審き先頭に立って戦うのか誰か、地上の王(人の力)か神(とその力)か、その戦いが「主の戦い」か「我々の戦い」か、その信仰が問われ明らかになります。この言葉は、まさに現代を生きているわたしたちにも、そのことを鋭く問いただします。

サムエルは彼らの意思を確かめ、民の声を主の耳に入れました。これを聞かれた主は、「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」と答えています。こうして王権は神の定めた制度となりました。人の声を歴史の必然として受け入れる神の意志が示されます。しかし、18節で語られるサムエルの預言的言葉により、同時に王権は、神の裁きの下にある人間の制度でもあることが明らかにされています。こうして、自分たちの企てに固執する民は神の裁きの下に置かれます。その後の王国のたどる道が、神の承認に値する主の御心に従うものとなるか、この章で論じられたことから、その歴史の検証が求められていくことになります。

サムエルは、「彼らに王を立てなさい。」という言葉にもかかわらず、直ちに王を任命せず、民を自分の町に帰らせるところでこの章が終わっているのは、注目すべきことです。その後どうなるか、注目しながら王制の成立を見つめて行くことが求められています。

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