イザヤ書講解

44.イザヤ書45章1-7節『世界の主』

44章28節において、ペルシャ王キュロスが、主の望みを成就させる者として、エルサレムと神殿再建にのために重要な役割を担うことが述べられていましたが、ここでは、「主に油注がれた者」として、その任務を遂行することが語られています。この段落においては、主が異邦人で異教徒であるペルシャ王キュロスを用いて、イスラエルの民を解放し、ご自分の望みを成就される主こそ、世界を支配する唯一の主であることが明らかにされています。 しかし、当時の聴衆にとっては、主がキュロスに油を注がれると語る第二イザヤの最初の言葉は、驚くべきものであり、ひどく不快に感じと思われます。「油を注ぐ」ことは、王の任命と関係しています。詩編においては、それは、あくまでイスラエルの王についてのみ、なされる行為として理解されていたからです。「油を注ぐ」(マーシーアハ)は、後には、救いをもたらす者、を意味するようになり、主イエスのメシア性を語るときに、その語は用いられていますが、この語は、旧約聖書においては、いつも現在支配の座にある王にだけ用いられます。そして油を注ぐ行為は、王の働きのために権能を与えることを意味します。「右の手を固く取る」その行為は、王の職務を承認することが示唆されています。 1節後半から語られるキュロスに向けられた言葉には、委任と約束が語られています。「わたし(主)の望みを成就させる者」(44章28節)キュロスに、「わたしはあなたの前を行き、山々を平らにする」(45章2節)との約束が与えられています。神が共にいて、その先頭に立って導かれることが、征服のための行軍を成功させることになります。それゆえ、 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。 扉は彼の前に開かれ どの城門も閉ざされることはない。(1節) という事態は必ず起こる現実として語られています。 しかし、このキュロスに対する任命には限界が設けられています。主(ヤハウエ)が与えるキュロスへの委任は、あくまでイスラエルのために与えられるものであるという点で、限界が設けられています。キュロスは「主が油注がれた人」とはいわれても、主の僕とは言われていません。主と僕は、相互の関係の不変性を表す特別な名としての意味があります。この場合、「油注ぐ」という言葉で表された、イスラエルの解放者としての王への任命は一回的な任務のためのものです。それゆえ、主なるヤハウエとの永続的な関係として、キュロスがその任務に立てられたのではありません。 わたしの僕ヤコブのために わたしの選んだイスラエルのために わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが あなたは知らなかった。(4節) この4節の言葉は、まさにその委任の限界を示しています。キュロスはどこまでも、主がイスラエルを捕囚から解放し、エルサレムの再建とその神殿に基を置くためにその任務を与えられたに過ぎないことがここで明らかにされています。4節の最後で述べられている「あなたは知らなかった」という言葉は、彼が悔い改めて主を信じるものとなり、僕として主体的に働くものになったのではない、ことを明言しています。 このようにキュロスを用いることのできる神は、まさに歴史を支配する主として、この神のみが真実で、この神以外に他に神はない、ということを明らかにするものとなります。だから主は次のように言うことができます。 わたしが主、ほかにはいない。 わたしをおいて神はない。 わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった。(5節) キュロスへの委任は、彼への約束も含めて、イスラエルのために起こるもので、キュロスが立っている歴史やペルシャの民の故に起こることではないことが、ここで強調されています。ここでも繰り返される「あなたは知らなかった」という語は、前述の意味に加え、彼自身は自分がそのようなものとして用いられているということにも気づいていないという意味も含めて語られています。 ただ4、5節に繰り返し述べられている「あなたはわたしを知らない」という語と、3節の あなたは知るようになる わたしは主、あなたの名を呼ぶ者 イスラエルの神である、と。 というごとの間にある矛盾をどう説明するかという問題が残ります。注解者によっては、キュロスは後に回心して、主に従い、主に仕える者となった、というふうに理解する人もいますが、キュロスの回心を歴史の事実として確認することもできませんし、むしろ彼の功績はバビロンの神マルドゥクの代理人としてのものであるということが、前538年頃にできたといわれる淘土製のキュロスの円筒刻文には記されています。しかし、この円筒刻文は第二イザヤの預言よりも後に記されたものであることははっきりしていますので、第二イザヤはそれを改変する目的でこれらの預言を語ったということもできません。 いずれにせよはっきりしているのは、第二イザヤは、キュロスの回心を期待しなかったし、そのことを預言しようとしなのでもないということです。第二イザヤがこの預言を語った目的は、キュロス王やペルシャの民がヤハウエへの回心を促すためではありません。その目標は遠く未来に向けてありますが、ここではただヤハウエのみが神であると世界中に認められるようになることです。世界史に参入するイスラエルに今起こっていること、ここで一民族とその神との契約が、崩壊(国の滅亡とバビロン捕囚)を乗り越えて存続するという奇跡が、この民によって他の諸国に証言され、他の諸国民がこの神の方に向くようになる(44章5節)、ということに目的が置かれています。 しかし、イスラエルの神によってキュロスが委任を受け、それによってイスラエルの外の世界で、そのような神認識が呼び起こされるということは、どの様にして説明のつくことになるのでしょうか。 イスラエルの王国には、サムエル記下7章において、大きな約束が与えられていました。ダビデの王国は永遠に存続するという約束です。しかしその約束にもかかわらず、ダビデの血を継承するユダ王国も北のイスラエル王国と同じように滅亡し、捕囚の民とされました。だが、この第二イザヤでは、神はイスラエルの解放のために、キュロスをその油注がれた者として、王に任命することができることが明らかにされています。そうであるなら、この任命によって、ヤハウエがその民を助けるために用いる政治的活動は、ダビデ王国(総じてイスラエル=ユダ王国)から、剥ぎ取られたことになります。神はかつてイスラエルの王たちを通して行われたことを、いまや異国の王、異国の権力と異教の信仰を持つ王を通じてもたらすことができる、ということが明らかにされたのであります。言い換えれば、このキュロスへの託宣を持って、イスラエルは神の民として政治権力を用いることをやめた。あるいは、それは必ずしも必要なものとはならなくなった、ということができます。神の民を政治権力形態から引き離すことは、キリストによってはじめて成し遂げられたのではなく、すでにここで成し遂げられているという事実を見ることができます。その意味では、この第二イザヤの預言は世界史的な意味を持ちます。まさにヤハウエは、このように世界の主として歴史支配を行いうることを明らかにすることによって、全世界に唯一の神であることが認められるようになるということを、第二イザヤは6節において述べているのであります。 この第二イザヤの告知は、破格な託宣ですが、締めくくりの7節の託宣は驚くべき破格さをもちます。ここでは神は、ただ光だけを創造した創造者ではなく、闇をも創造し、平和だけでなく、災いをも創造するものといわれています。 光を造り、闇を創造し 平和をもたらし、災いを創造する者。 わたしが主、これらのことをするものである。(7節) という言葉は、災いも闇のもすべて神に着せられるべきことを明らかにしています。これは創世記1章の記述とまったく異なるものです。創世記1章においては、闇の世界に神は光を与える方、光の創造者として啓示されています。そこでは神は闇を創造されず、ただ光のみを創造されたと語られています。この創造の世界に悪は侵入しますが、このことは説明のつかないまま放置されています。しかし、第二イザヤは、神は光と闇の創造者であると語り、あらゆる二元論を締め出します。神が悪と災いをももたらす創造者であるなら、悪魔の占める場所はもはやなくなります。しかし、災いをももたらす神とはどういう神でしょうか。神がキュロスを通して行われることは、神がご自身とその働きについてイスラエルの民に語った領域を実際越えています。「それゆえ、このキュロスへの言葉の最後で指摘されるのは、神の神としての存在が、神について人間が語ることの限界と、神について人間が考えることの限界、従ってまたすべての神学の限界を突き破っている、ということなのである」と、ヴェスターマンは説明しています。わたしたちの歴史の現実として起こる「闇」の部分も、神のことしての意味を深く問い考えるべきことが、求められています。その闇の中にも働かれる神が、またどのように闇を光に変えられるか、人は知ることができませんが、闇をも用い支配し、神はご自身の救いの歴史を導かれることを、闇の中であっても信じることができます。この言葉はその様に聞くことができるとき、わたしたちはまた大きな平安を与えられます。

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