サムエル記講解

2.サムエル記上1章21節-2章11節『ハンナの祈りと信仰』

この箇所は、「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません」(1:11)といって誓願を立てたハンナに与えられたサムエルを捧げたことと、ハンナの祈りが記されています。

ハンナの夫エルカナは、敬虔なイスラエル人として、毎年家族を連れて、自分の町ラマから神の箱があるシロの町に行って、いけにえとを主に捧げていました。サムエルが生まれた年も、妻ハンナと生まれたばかりのサムエルを連れてシロに行って、同じようにしようとしましたが、ハンナはこの夫の申し出に対して、「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」(22節)と言って、行こうとしませんでした。

あれほど主に願ってした誓願を棚上げにして、シロにある聖所に行こうとしないハンナとはどういう女性でしょうか。彼女の信仰とはいったい何でしょうか。ここで彼女は一つの母親としての喜びの時を過ごしたいと素朴に求め願っています。実に人間的な喜びを大切にしようとしています。

夫のエルカナは彼女が主の前になした請願のことをすでに知らされ知っていたと思われます。彼女の誓願は、夫と相談せず、彼女の独断でなされたものですから、民数記30章の誓願の規定に基づいて、エルカナは妻の立てた誓願を有効にも無効にもすることができましたが、エルカナはハンナを愛していましたので、それよりも一歩進んで、自分自身もその誓願の当事者として振舞おうと、「自分の満願の捧げ物」を携えて、妻と共にシロに行き、二人の間に生まれた子サムエルを主に捧げようとしていたのです。

ところが、「乳離れするまで」この誓願を延期させたいという思いがけない妻の言葉を聞きました。妻を愛していたエルカナは、「あなたがよいと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待つがよい。主がそのことを成就してくださるように。」(23節)といって、妻ハンナの願いに同意しました。妻の主に対する請願を有効として受け入れた夫は、その誓願に対して責任を持つ者となります。それゆえ彼は、妻の誓願が正式に、また時期を失せずに実行されるように監督しなければならなかったのです。エルカナはすぐに子供を手放したくないという妻の気持ちも良く理解できました。長い不妊の時を耐え、やっと主の祝福により高齢で出産した愛子サムエルに乳を含ませ可愛がる彼女を毎日見ている彼にとって、その気持ちは痛いほど良く理解できるのです。

当時の母親は、生まれた子を3歳くらいまで母乳で育てました(Ⅱマカバイ7:27)が、オリエント世界では何年間も子供に乳を与えることも珍しくありません。だからそれを口実に、ハンナがその期間を長く引き延ばすことも考えられました。エルカナは葛藤しました。しかし、妻の思いをも大切にし、その時を主に委ねます。エルカナの「あなたがよいと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待つがよい。主がそのことを成就してくださるように。」という言葉は、妻をいたわる含蓄のある言葉です。

「ハンナはとどまって子に乳を与え、乳離れするまで育てた。」(23節)母親ハンナにとってかけがえのない時が記されています。それは僅か3年しかなかったかもしれません。しかし、大切な忘れられない貴重なときです。救い主が弟子たちと共に過ごした時も同じ位の長さです。弱い人間がその愛を知るのは、大切な者と過ごした貴重な時間を思い起こすことによってです。ハンナが抱いて乳を含ませたサムエルは、イスラエルを救う主の働き人となります。彼女はそのために聖別される子を手で抱いていますが、彼女の心と存在はその子を通して与えられる主の祝福の懐にあります。主イエスは弟子たちと過ごした3年間を、そして、その弟子と教会をご自身の懐に抱きかかえ続けておられます。

ついにハンナは、乳離れした子を主に捧げます。「アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた」(創世記21:8)といわれています。オリエント世界では、今日でも子供の乳離れの日に盛大な祝宴の時がもたれる習慣があります。サムエルの乳離れの際も、祝宴がもたれたに違いありません。ハンナは、サムエルとの最後の晩餐の時を過ごし、その後、捧げ物を携えて、サムエルを連れて、祭司エリがいるシロの主の家へ上って行きました。

ハンナは定めの犠牲を捧げた後、エリに向かって、「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」(26-28節)といって、サムエルを主に捧げました。主にその子を捧げきるハンナの犠牲の大きさ、主への愛の大きさを通して、神がわたしたちを救うために独り子を与えてくださった愛、自己犠牲の大きさを伺い知ることができます。

サムエルの名には、「その名は神」という意味があります。また、その名は、「シャーアル」(祈願する)からきているともいわれます。28節にはその語と語呂合わせをするように、「シャーウール」というヘブライ語が用いられています。「願われた者」が今や「取り分けられる」(委ねられる)時がきました。こうしてサムエルは主に聖別され、一生の間この聖所に捧げられることになりました。

この行為をハンナが単独で行ったような書き方がなされていますが、夫エルカナも一緒でした。この夫婦にとって待ちに待った子サムエルを、いくら請願したからといっても、主に捧げることは容易ではなかったと思います。しかし、信仰をもって主にこの子を委ねました。

28節の終わりに「彼らはそこで主を礼拝した」とあります。「彼ら」は、ヘブル語の原文は、「彼」となっています。ここで礼拝したのは、夫であるエルカナだけであるのか、その場合は、代表者としての彼の存在が強調されているのか、あるいは、幼いサムエルであるのか、祭司エリであるのか議論が分かれています。クムラン写本は「彼女」と読み、ハンナと解しています。しかし、ギリシャ語訳聖書には、この最後の文はありません。いくつかのヘブライ語の写本やシリア語訳、ラテン語訳聖書は、「彼ら」となっています。新共同訳聖書は、これに従っています。どの訳をとっても、夫エルカナが主を礼拝した可能性の非常に高いことがわかります。そうであるなら、ハンナの強い信仰の影に、彼女を支える夫エルカナの確かな信仰のあることも見逃せません。この夫婦を結びつけたサムエル、彼を捧げることにおいて心を一つにして主を礼拝し、そのことを確かめ合う夫婦の姿は、実にすがすがしいものです。

あるときまで子供のことで一生懸命になってその喜びに浸った上、その子を主にある者として捧げる、というのではなく、まず主に捧げるという信仰の下に、しばらくの間、子育ての楽しみを与えられる喜びに浸らせてくださる主の寛大な取り計らいに対する夫婦の感謝と喜びが、この礼拝に表わされました。

2章には、主の恵みを喜び感謝するハンナの祈りが記されています。

ハンナは、この祈りを「主にあって…」という言葉で始めています。彼女は不可侵な主の下にあります。強力な神の支配の中にあることを知る彼女の信仰は安心感に包まれ、強固なところに立っています。彼女の信仰においては、「わたしの敵」は、神の敵とみなされます。個人の人生は、孤立してあるのでなく、神の行為の中にあるからです。

更に2節において、主の無比性、唯一性、至高性を告白することにより、ハンナの信仰はより強固なものになります。主がこのように強力であるがゆえに、誰も敵対できません。主の前に誰も高慢になれません。「主は何事も知っておられる神」(3節)であるからです。神の目はすべてを貫き通し、義を持って裁かれます。主を恐れることこそ知識の始まりです。

4-8節において、この神の力と聖性は、高慢な強者を打ち砕き、貧しい者、弱者を慈しむ手として表されることが明らかにされています。神の主権とその力は何処までも及びます。6節の「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる」という言葉は、悲しみ嘆く者に示される神の慈しみの偉大さを称える言葉です。ヤーウェは、世界の創造主であり、かつ全能の神です。神の主権と力とは、その救いにおいて、大地の奥深くまで及びます。その力に限界がありません。陰府(シェオール)にまで及ぶ主の主権と力は、死者をも復活させる絶大なものです。

主はこの圧倒する救いの力で、

「 弱い者を塵の中から立ち上がらせ
貧しい者を芥の中から高く上げ
高貴な者と共に座に着かせ
栄光の座を嗣業としてお与えになる。
大地のもろもろの柱は主のもの
主は世界をそれらの上に据えられた。」(8節)のです。この神の力には限界がないのです。

全世界の創造者である主は、全世界の審判者であり、同時に救済者です。10節のこのメシヤ的王は、地上の王を意味するのか、それとも終末的未来の救い主としての王を意味するのかは、ここでは未決のままにされています。しかし、ヤーウェは無に等しい者、圧迫された者を勝利者にすることができます。不妊の女と見なされていたハンナから産まれたサムエルの生涯は、神の救いの歴史に組み入れられています。それを信仰の目で見ることが大切です。その信仰は、来るべきメシヤへの待望に繋がります。

ルカ福音書1章のマリア賛歌はハンナの賛歌を下にして歌われています。ハンナを顧みた神こそ救い主の神です。

旧約聖書講解