サムエル記講解

43.サムエル記下12:1-25『ナタンの叱責』

ダビデがウリヤとその妻バト・シェバにしたことは、「主の御心に適わなかった」(11:26)と前章の終わりに記されていますが、宮廷中に知れ渡っていましたっていたその罪を現実に指摘し、悔い改めの勧告する人物はまだ現れていませんでした。本章に入って、預言者ナタンが、ダビデのしたことがどれほど罪深いものであったかを悟らせ、その罪を叱責するものとして登場しています。そして、ナタンはダビデのよき批判者、助言者としてこの後も登場します。

ナタンは、一人の豊かな金持ちの男が多くの羊や牛をもっているのに、ある日自分のところに訪れてきた旅人をもてなすために、一人の貧しい男が自分で飼っていた一匹しかいない大事な雌の小羊を、取り上げ、その客に振る舞ってしまった、という譬えをダビデに語りました。

この譬えを聞いた「ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」(5‐6節)といって、強い正義感をもって、その男の罪を断罪しました。この言葉を語るダビデの信仰と精神はきわめて健全でありました。

しかしナタンは、このような反応を示したダビデに向って、「その男はあなただ。」(7節)と答え、死罪に値する人間はダビデその人であることを宣告しました。この宣告を聞いたダビデは、全身に稲妻が走るような大きな衝撃を受け、自分がウリヤとその妻バト・シェバにした罪のことが指摘されていることを悟りました。ナタンがダビデに語った言葉は、元々これだけであったという注解者の意見があります。7節後半から12節までは、後代の編集者による付加でなかったかという意見です。その罪に下される災いによる裁きを説明する言葉をのぞくと、ナタンの「その男はあなただ。」という言葉を聞いたダビデがこの言葉を自分への死刑宣告として聞き、自ら示した正義の基準に従い、潔く「わたしは主に罪を犯しました」と告白し、その裁きを受け入れるべく、悔い改めを表しているさまが、生き生きとしていて、迫力が感じられます。

ナタンの譬えがウリヤに関するものと事実関係がぴったりと来るかどうかはこの場合、たいした意味を持ちません。貧しい人が大きな犠牲を払って手にし大切にしているものを、豊かな人間ダビデが奪い取る行為は、死罪に値するだけでなく、4倍の償いを必要とすると自ら下すその判決を、ダビデは、ナタンの「その男はあなただ。」という言葉と共に受け入れました。それを証しする言葉が、「わたしは罪を犯しました」でありました。

「その男はあなただ。」この言葉ほど、人の罪を指摘する正鵠を射た言葉は他にありません。しかし、この言葉を受け、直ちにその罪を主に向って告白したダビデに与えられた言葉は、死刑の宣告ではなく、「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」(13節)という罪の赦しの宣言でした。つまりダビデにくだされた死刑判決は、ダビデの罪の告白に基づき撤回されたのです。主が望まれるのは罪人の死ではなく、罪人が悔い改めて生きることです。ダビデの罪の告白を聞いたナタンは主によってこのような赦しを告げたのです。

しかし、ダビデは罪赦されて、何のとがめだてがなかったのではありません。後代の編集者による付加かどうかは別として、9‐12節において明らかにされる災いは、ウリヤを戦場で死なせたその罪にふさわしく、第一に、戦争と剣による災いがダビデの家に襲い来ることが告げられ、第二に、バト・シェバとの姦淫による罪に対する災いとして、それに相応しい罰がその家の歴史において起こることが告げられています。

しかし、これらも本来直接ダビデに告げられていいたかどうか判りません。むしろダビデに間違いなく伝えられていたのは、その罪によって生まれてくる子の運命は、主を甚だしく軽んじた罪に対する罰として、必ず死ぬというものでありました。

ダビデはこの神の忍耐深い愛による罪の赦しと同時に、愛する子の死という厳しい判決を聞かねばならなかったのです。しかし、この厳しい子の死という災いは、この犠牲により、ダビデ自身は死から免れ、再びその罪を問われず、災いはこれで終わり、そのかなたに大きな恵みがあることを告げる意味もありました。この幼子の死という悲しむべき出来事は、イエス・キリストの十字架の贖いを示す予表的意味をもつ出来事となりました。

ダビデはこの宣告を聞いて、家に帰ります。その宣告通り、主はウリヤの妻が産んだ子を打たれました。子が日に日に弱るのを見たダビデは、激しい悔い改めと祈りをささげます。断食し、粗末な服をまとい、主が祈りを聞き自分の子供を連れ戻してくれることを期待し、ダビデはあらゆる試みを行いました。ダビデは、あるいは主は祈りを聞き届け、その災いを下すといったのを思い直してくださるかも知れないというかすかな望みを託していたのです。

しかし、ダビデの祈りも虚しく、その子は七日目に死んでしまいます。ダビデのなりふりかまわない子への愛からほとばしり出る祈りの姿を見ていた家臣たちは、その子の死んだという事実をダビデに伝えることをためらいました。悲しみのあまり、ダビデが自暴自棄な行動を取るのではないか心配でならなかったからです。

ところが家臣たちが息子の死についてささやきあっているのがダビデの耳に入りました。宮中に飛び交う噂話を集めて、ダビデは息子の死を悟ります。そして、「あの子は死んだのか。」と家臣に確かめました。家臣の多くは、ダビデが息子の死を知ると、彼らの予想に反して、驚くほどあっけらかんとした態度に変化しています。生きている間は、あるいは神が祈りを聞いてくださり、息子を死から連れ戻してくれるかも知れないという淡い期待をもっていましたが、死の事実の前に神の御心を知り、ダビデは立ちあがり、身を洗い、香油を体に塗り、衣を着替えて、礼拝を守り、用意された食事を取りました。そして、その姿に驚いている家臣たちに、「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」といって、その理由を述べています。死という人間の手で変えることのできない事実をささっと受け入れ、立ちあがるダビデの信仰は実に見事です。主がその祈りに否を言われることを知ったダビデは、この事実を実に素直に受け入れているのです。この潔いダビデの信仰をわたしたちも学びたいものです。

しかし、この死にはもう一つの意味がありました。この子供の死が主の宣告通り起こることにより、ダビデに及ぶ災いがこれ以上ないということの保証としての意味がありました。

王位継承史という枠の中でこれらの出来事を見るなら、ダビデの命と彼の王国を破滅させかねない悪事が、神の裁きと恩恵によって一件落着したさまがここに報告されています。

そして、主に選ばれた王の歴史が新しい祝福のもとに導かれて行く様が24節以下に報告されています。ダビデはバト・シェバとの間でできた不倫の子は死にましたが、新しく男の子が生まれます。ソロモンです。その名は「シャローム」(「平和」)と関連しています。ナタンはその名をエディドヤ(「主に愛されたもの」)と名づけなした。最初の子とちがい、この子は生き延びます。そこに主の愛が示されています。ダビデはこの子を通して主の愛を知ります。ここでも来るべき救い主を通して与えられる恵みによる救いが、指し示される予表としてこの出来事が報告されています。

ダビデはウリヤとその妻バト・シェバに対する大きな罪にもかかわらず、サウル王のように主の拒絶による裁きへとは向わず、むしろ赦され祝福へと導かれています。その道を用意したのは、預言者ナタンです。ダビデは、その罪を指摘し、その罪を悔い改めさせ、そこから立ちあがらせる預言者をもっていました。この王を恐れず語る預言者を持つことは王にとって大きな救いでありました。適切な助言者、正しい道へ導く助言者を持つことは、幸いです。

ダビデとサウル王の人生に大きな違いがあるとすれば、その罪の大きさではなく、犯した罪の後の悔い改めと、御言葉に聞く態度の違いです。サウルは預言者たちを殺し、その罪を指摘し、道を正してくれる助言者を持ちませんでした。しかし、ダビデにはこの自らの罪を指摘してくれる預言者ナタンがいました。わたしたちも、罪を指摘してくれる神の言葉を取り次ぐ預言者をもって生きることが幸いな信仰の歩みであることを共に覚えて行きましょう。その様な態度で日々聖書に向って歩みたいものです。

旧約聖書講解