イザヤ書講解

71.イザヤ書63章15-64章11節『どうか、天を裂いて降ってください』

ここに歌われているのは、民族の嘆きです。イスラエルは、神の恵みの選びによって神の子とされ、神に絶えず担われ、愛と憐れみを持って贖いに与っていたにもかかわらず(63章9節)、主に背き、主の聖なる霊を苦しめた故に、主がひるがえって敵となり戦いを挑まれたため(10節)、国の滅亡と神殿の消失と捕囚という破局を経験しました。ここには、その事態を現在信仰的に受け止めている民の嘆きが歌われています。

イスラエルの嘆きの最も深い動機は、現在神の憐れみが失われているというところにあります。だから、この嘆きの導入の言葉は、

どうか、天から見下ろし
輝かしく聖なる宮から御覧ください。

という言葉で始められています。天にある聖なる宮、その御座から主なる神が御顔を隠され、目を向けられない限り、イスラエルにはどのような希望も見出すことはできません。「どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は」という言葉は、嘆く者自身が失われたままの存在であるとの認識を表明しています。イスラエルの拠り所は神の憐れみの中にあるので、神の憐れみが失われたところでは、自分たちは失われた存在であるという認識しかイスラエルはもつことができません。

ここで民は、そのような神の見捨ての現実のただ中で、神への信頼を、「あなたはわたしたちの父です」と告白しています。見捨ての現実のただ中にあっても、父である神が御顔を向けられなければ、救いの希望はない、という信仰の告白がここに見られます。たとえ人間の父であり、祖先である者、アブラハムやイスラエルが、子として認めないような事態が起ころうとも、主は変わることなく生きて現存する父であり、この嘆く信仰共同体を子として知り、認め、ご覧になられる。神こそが「私たちの贖い主」として、永遠にその愛と憐れみを持って慈しみの御手を差し伸べられた。そして、人々がお前たちの神はお前たちを見捨てたではないかとたとえ言ったとしても、この嘆きの言葉を述べている民は、父である主に呼びかけ続け、神は恵み深く民に顔を向けることができるという信仰を持って、神を「わたしたちの父」と告白しています。

16節の、「『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」という告白は、9節の、「昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。」という言葉に対応してなされています。イスラエルの父である神は、永遠に変わることのない「わたしたちの贖い主」であるという信仰の核心こそ、ゆるぎない救いへの希望の根拠です。

敵の手に渡し、聖所を彼らに踏みにじらせ、土地を奪わせたのも主であることが、18節において述べられています。そのように認識するなら、その聖所と土地、すべての破滅した状態からの回復もまた、そこに主の御顔と御手が再びむけられるのでなければ不可能です。神がそこに現在御名を置かれない、その結果、イスラエルは今や御名で呼ばれない民となるという、神の不在と無神の民へと転落してしまったところに深い絶望の原因があります。その期間は「久しいとき」(19節)といわれるほど長く感じられています。詩篇の詩人は、「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」(詩篇84:11)と述べていますが、主が共におられない神の不在の時は、たとえ一日でも千日のように長く感じるほど、空しくその心を絶望的にさせます。それゆえ、その嘆きは、

どうか、天を裂いて降ってください。
御前に山々が揺れ動くように。(19節)

という切望、激しい神の到来への待望へと転換しています。天を引き裂くように、地の基を揺るがすほどの激しい神の介入、救いが与えられない限り、イスラエルは御名で呼ばれる民としての名誉の回復はなされないからです。

神がそのように介入されるのでなければ、現状は少しも変化しません。それほど現在の悲惨さから回復するという望みも手立ても施しようないという現状の厳しさへの認識が一方にあります。他方、神がそのように介入されるなら、どのような事態も必ず良い方向へ変化してゆき、また、その導きのもとでどのような事態も変えうるという信仰の核心を得ていますが、その神の救いを現在妨げている最大の原因が、自分たちが犯した罪にあることを、ここで改めて告白しています。そうすることによって、嘆きによる神への告発はもはや見られなくなり、それはただ、救いを求める祈りへと変わっていきます。

その罪によって、汚れた着物のように捨てられ、枯葉のように散り果て、風のように運び去られ、主の御名を呼ぶ者さえなくなり、奮い立って主にすがろうとするものさえいなくなるほど、イスラエルには信仰が見られなくなったという深い憂い嘆きは、自らの罪に原因があります。罪を犯して信仰に目覚めず、神にいっそう背を向けて生きるイスラエルの現実を打開しかえるのは、主が御顔を再びイスラエルに向け、陶工が粘土をこね、陶器を新たに作るように、主の救いの創造の業が同じようになされる必要があります。

主がイスラエルの悪に目を留められるのでなく、罪に敗れている民に再び目を留めて、荒廃した荒れ野の状態になっている彼らの信仰と、約束の土地と、臨在を約束された聖所の回復を、天を裂いて降ってきてなされるという主の介入なくして、救いは来ないのです。だから、主がその救いを望まれ、主が介入してその救いを実現されるようにとひたすら祈り求めるのです。神がこの罪をあっさり取り消してくださるかもしれないという仕方で願っているのではありません。罪は起こっており、その避けがたい結果も起こっています。しかし犯された罪にもかかわらず、なお生きることの可能性がその祈りにおいて嘆願されています。神がそれでも顧みられるなら、罪深いイスラエルにもう一度御顔を向けられるなら、それは実現可能となるからです。

この嘆き祈りの姿勢は、まさに私たちに求められている祈りの姿勢であります。その祈りは、神を「我らの父」という変わらざる信仰を持ってのみなしうるものです。そして、悲惨の原因は、神が御顔を隠し神の憐れみが現在示されないことにあるという根源的な認識を絶えず持つ必要があります。だからいつも神が御顔を向け、憐れみをもって、わたしの現実のただ中に入ってきてくださるように、祈り続ける必要があります。

神の御子である主イエスが、十字架を耐え忍びその受けねばならないときに、ゲッセマネの園で「アッバ、父よ」という信頼を最後までよせて祈り続けられたように、わたしたちもその信頼の中で、どのような苦難のときも祈り続けなければなりません。その祈りの中から神は希望を与え、救いを見る信仰を豊かに育ててくださいます。この信頼の祈りをもって御手に委ねて十字架の死を耐え忍ばれた御子を神はその墓より復活させられた事実を新約聖書は伝えています。それは、この御子を信じ、御子に結合されているわたしたちにも与えられる恵みとして語られていることを深くかみしめることが大切です。

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