詩編講解

22.詩編第30篇『救われた感謝の祈り』

この詩篇は、死の苦しみの中から救われたことが、神の恵みによるくすしい業であるとする信仰者の感謝の祈りであります。作者は、我が身において成就された神の大いなる出来事の全体を感謝し、もう一度そのときのことを噛みしめて表現したいという願いからそれを表しているのであります。この詩篇の導入部が「主よ、あなたをあがめます」という讃歌的な響きをもつ言葉で始められているのはそのためであります。

神は、穴に投げ込まれている囚人を引き上げるように、作者を死の危険から救い出されました。彼は自分の敵たちに目をやることによって、神の御業の意味を実感しているのであります。敵たちの勝ち誇る声を思い浮かべただけでも、死の苦しみがどれほど重く彼の心にのしかかってきたことでしょう。

作者は、敵の嘲りと辱めに対してなすすべもなく滅んでいくしかないという人間的な深い悲しみを経験しましたが、それ以上に彼の大きな悲しみ苦しみがありました。その原因となったのは、敵の勝利は、彼の信仰に対する彼らの勝利を意味することになると考えていたからであります。彼は、自分が神の事柄の代弁者であることを自覚し、もし自分が負ければ神の事柄そのものが危うくされることになると考えていたのであります。彼にとっては、神の勝利を確信する信仰が問題なのでありました。彼は、敵を目前にしたまさにこの具体的な状況において、彼自身の生がいかに密接に神の事柄とない交ぜになっているかを見届けようとしているのであります。
作者は、間違った道を歩んでいたのでありますが、神は彼を破滅から守り、彼を癒すことによって、神はご自身の事柄に勝利をもたらしたのであります。

作者は、自分の魂がすでに陰府につながれており、神との結びつきがいっさい絶たれてしまって、自分がすでに墓穴に下る者の一人であることを感じとっていました。彼の苦難は、かくも重く、神に見捨てられた彼の苦悩は、かくも深かったのです。彼は、それが自分の悪しき生活によって引き起こされた罰であることを認めざるを得ませんでした。

しかし、彼は身体だけでなく魂の苦しみからも救われ、神と人生に対する正しいつながりを回復させられたのであります。そのようにされた今こそ、作者にとってその生が真に深い意味で新しくされたのであります。

主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ
墓穴に下ることを免れさせ
わたしに命を得させてくださいました。(4節)

このように告白することによって、作者は感謝を込めてその恵みを神の手から受け取ることができたのであります。

彼は、神への感謝と賛美を自分だけに与えられた恵みとして個人的なものとしてとどめることをせず、会衆に対しても、神への賛美を勧めているのであります。これは旧約聖書の契約信仰の本質にかなった信仰の表明であります。個人の経験することは、信仰の共同体の中にいる他の者たちもともに経験する、これが旧約聖書の契約信仰の基本にある事柄であります。

神の贈り物を、利己的・個人主義的なやり方で独占し、自分だけの楽しみに耽るのは、真の信仰とはいえません。信仰にとって最終的に問題なのは、神の事柄であり、人間の事柄ではありません。したがって、神の本質と摂理が奥義として隠されたままで終わらず、他の人々にも啓示されていくことは、信仰にとって重大な関心事となります。

それ故、神の証人となることこそ、すべての信徒の重要課題であります。契約の民の一員として経験した信仰者の救いの体験そのものが、神の救いを啓示する重要な意味を持っているのであります。個人の救いの体験は、決して個別的なものにとどまらない普遍的な真理としての意義を持つのであります。作者は、自らの死の苦しみからの救いの体験を、そのように理解し洞察しているのであります。

 ひととき、お怒りになっても
命を得させることを御旨としてくださる。(6節)

この言葉は、決して浮ついた気持ちで述べられているのではありません。作者は、神の怒りはどうせすぐおさまるからといって、真剣に受け止める必要がないないと高を括っているのではありません。彼は、神の怒りはあくまでも真剣に受け止めるべきであると考えているのであります。

けれども、それは神の怒りである故に、人間の怒りとは別の現実をもたらせるのであります。神は人を滅ぼすために怒るのではなく、教え育むために怒られるのであります。作者は、その重大な事実を、我が身の体験を通して知らされました。神の怒りは、間違った道を歩んでいる人間を、正しい道に至らせようとする神の恵みであると、発見したのであります。彼は実に美しい慰めに満ちた言葉で、その体験を語っているのであります。

泣きながら夜を過ごす人にも
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。(6節後半)

この詩篇の作者の生は神の恵みによるこの奇跡の上に新たに樹立されました。これと同じ恵みの奇跡を、会衆も彼と共に賛美しているのであります。会衆はその賛美によって同じ恵みが表されることを信じ、期待して待ち臨むのであります。このような神体験は、神の教会の信仰を深く変化させるのであります。

かつての彼の祈りの態度は、今とは違っていました。「わたしはとこしえに揺らぐことがない」(7節)と確信に満ち溢れていました。

しかし、そのことに気づかされるまでの彼の信仰は間違っていました。それは、彼が面と向かって神に背いたというのではなく、彼の信仰が向いている方向に問題がありました。彼は自分の信仰ばかりを見つめ、自分の信仰の業績をあてにし、それが自分の生を支える土台となると信じ込んでいたからであります。

彼のすべての宗教的な思いは、どれほど神のことに専念していたとしても、所詮は、自我とその保身のためのものでしかなかったのであります。そのような彼にとって、神は自分の願いどおりに利用する存在になり下がり、彼の信仰は、まことの神とは程遠い神を目指していました。この点に、作者は気づいていませんでした。それは、自分を求める信仰であって、神を求める信仰ではなかったのであります。そして、それは、私たちもしばしばおちいっている問題でもあります。

今、作者は自分が陥っていた誤りを悟ります。自分の力、とこしえに揺らぐことがないと自惚れていたものが、実は神の恵みの賜物にほかならず、この恵みに対しては、自負や自信ではなく、遜りと感謝をもって答えるべきことを悟らされたのであります。

なぜなら、人間の生は、すべて余すところなく神に引き渡されているのであり、神に対する安全保障など、人間の側にはありえないからです。神が「御顔を隠される」(8節)まで、また、病床で作者が死に脅かされつつ、あらゆる人間的な保証の崩れさっていくのを体験するまで、彼はこの事に気づきませんでした。

神が彼の支えの手を引いたとき、彼は愕然として、現に生きて働く神を認めることができたのであります。この体験が、作者を正気に戻し、内的な転換をもたらせたのであります。不幸の最中に詩人は、これまでの生を支えてくれた神の御手を感じとりました。彼は自分の病に、彼を懲らしめる神の怒りを見出し、また自分の罪を認めているのであります。

彼は自己過信という罪の故に、神に見捨てられて苦しんでいたのでありますが、今やそれが取り除かれたからであります。

作者は、外的・内的な苦難に翻弄され、畏れおののきつつ、その目は神の恵みに開かれてゆきました。現在の苦難が神の怒りによるという事実に眼が開かれ、その事を深く感じとったとき、それが神の恵みであることを悟ることができました。まさにこのことのうちに、隠れたる神の導きが潜んでいるのであり、神は怒りのうちに、人間をその恵みの認識に導こうとしておられるのだ、という深い配慮を読み取ることができたのであります。

しかし、それを悟った詩人は、そのことに満足しそこに止まろうとしません。

わたしが死んで墓に下ることに 何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝をささげ
あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。(10節)

このように彼は祈ります。だからといって、彼は自分の命が永らえ、自分の利益が得られるために、この祈りを捧げているのではありません。

一見したところ、この祈りには、祈り手の立場を重んじ過ぎているような印象を与えます。しかし、ここで祈り手の心を支配しているのは、もはやそのようなことではなく、彼自身が達した深い信仰の認識、神の恵みを証しする信仰の義務に関するものでありました。

旧約聖書において信仰者は神の啓示の担い手であります。死の苦しみと敵の辱めに苦しんでいた者が、自らの罪を認識し、悔い改め、立ち上がることができたのは、ただ神の恵みによるということを、本当に深く神に感謝して生きていることを、彼が神に嘉せられて生きているということを、実際、具体的な恵みの中で生きている彼の生きざまにおいて啓示する義務を、深く感じとったのであります。

個人的な救いということに限れば、彼は、苦難の中でも感謝するだけで十分でありました。彼がこのように祈り、喜び踊れるようにと願ったのは、このように罪を犯し、神の怒りの下におかれ、見捨てられていた者をも顧み、敵の手からも救い出したもう神の手によって解放された恵みを証しし、感謝を言い表すためであります。そのように、私たちの救われた日の後に続く余生が用いられるべきことを、この詩篇の作者は、この感謝の祈りの中で私たちに教えてくれているのであります。

旧約聖書講解