エレミヤ書講解

36.エレミヤ書22章20-23節『エルサレムの嘆き』

21章11節から23章8節まで、王に対する預言が収められていますが、この22章20-23節は、本来、王に対することばではありません。名を伏せて、比喩的に婦人として人格化された対象に向けられて語られたものです。しかし、文脈から、それがエルサレムであることが示唆されます。

ここには、おそらくヨヤキム王の治世の末期の状況か、もしくは3か月と続かなかったヨヤキンの治世の初期の状況が問題にされています。このことは、この預言の言葉が、年代順に、ヨヤキムについてのことば(13-19節)と、ヨヤキン(コンヤ)についてのことばとの間の位置にある、ということからも確実であると思われます。

前597年の破局、即ち、第1回バビロン捕囚は、既に起こったこととして、ここに前提されているわけではありませんが、預言者エレミヤの目には、それが不可避なこととして見えています。おそらくエルサレムは既にバビニアの軍隊に包囲されていたと思われます。だからこそ、エレミヤはこの町に、「叫べ」と命じているのでしょう。

しかし、この町に嘆きを要請するのはヤハウェ自身です。この町は高い山から下って行って、「愛人たちは皆、打ち破られた」と叫ばなければならない、といいうのです。ここに特定の地方の名が示されています。北のレバノン、ヘルモン山を頂く北東のバシャン、南東はモアブの山地の北にあるアバリムの山々です。このアバリムとは、かつてモーセがネボ山から約束の地を遙かに眺め渡すことが許された地です。これらの地方は、敵に攻め囲まれているこのエルサレムの町の住民にとっては、もはや赴くことのできない土地です。それゆえ、これらのことばによって、襲い来る破局からは逃れえないということが異様な形で強調されています。そして、この事実が、この預言の全体の焦点になっています。

ここには、どこか外国の勢力を同盟者として、そこに望みを託すことさえ絶たれている状況が示されています。こうしてこの町は、今や、自分自身を頼りにするほかないのだという宣告を受けています。

エレミヤは、まだ平穏であった時代に、何とか手の施しようがあった間に、そのような事態にならないようにと繰り返し警告の言葉を発していました。しかし、今や、その事が成就します。エレミヤの言葉は意識的に拒否されました。神のことばへの無関心と不従順癖とは、出エジプト後の荒野の時代以来、古よりこのかたずっと示し続けてきたこの民の特性でありました。21節の以下の言葉は、この事実を指摘しています。

この民に表された神の救済の歴史に並行して、常に、人間の罪の歴史があったことを、この民自身の歩みが明らかにしてきました。そのことはエレミヤ自身嫌というほど体験させられた事実でありました。

このような洞察をもってすれば、今や時は遅きに失しているということになります。即ち、預言者によって警告されていた審判は不可避となったということです。民の牧者としてのつとめをないがしろにした指導者たちは、今や自分が養われることになるからです。しかもそれは、「風に追われて」(22節)といわれているように、自らの意思ではなく、神からの暴風という恐ろしい牧者によって養われることになります。この神からの暴風は、彼ら指導者を捕囚へと吹き飛ばします。ここで「愛人たち」と呼ばれているのは、おそらくユダ王国と同盟関係にあった国のことをさすと考えられます。彼らが捕囚とされたように、王とその同調者(王の高官や王の権力と結びついて様々な利権を漁っていた人々)たちもまた同じ捕らわれの運命を分かつことになるであろうということが述べられています。

彼ら指導者を捕囚として連れ去られたエルサレムの町はどうなるかというと、この町は、神がその悪の故に罰として下される崩壊を前にして、助ける者も導く者もないままに、恥を受け、卑しめられて、失意のうちに佇むことになる、といわれます。

エルサレムの町は高台にあり、戦術的に有利な地形であったため、多くの人々は安心していました。しかし、エルサレムを取り囲むバビロニアの軍隊が間近に迫っても、エルサレムは未だ破壊されていないという、最期の拠り所となったかもしれない一縷の望みも、この町から奪い去られてしまいます。レバノンの高い杉の梢に巣を作る鳥は、外敵から身を守られ安全でした。このレバノンの杉のように攻略しがたい丘の巣に隠れる人々には、敵が自分たちを攻撃することは不可能であると思われたことでしょう。しかし、エレミヤはそのような誤った安心感に、別のむごい「確かさ」を対置させています。それは、子を生む女が避けることのできない陣痛に襲われるように、この町は、必ず襲ってくる運命の下に呻くことになるであろう、とエレミヤは語ります。

神のことばへの無関心と無視を続けてきたこのエルサレムは、それでも神の恵みによって自分たちは守られ、堅牢な自然の要塞に守られる、と安心しきっていました。そのようにして、その不信仰と背信の罪に対する神の怒りの大きさと審判の確実さを侮っていました。

人間のどのような確実性や安心感よりも確実なのは、神のことばです。神はその救いの確かさを約束する一方で、この恵みのことばを拒み、御言葉への無関心と無視に生きる者に対して下される審判の確かさを同時に明らかにされます。決定的に下されるべき神の審判の遅延は、その審判の確実さを軽く見、人間の奢りを生む原因になりやすいのです。しかし、その遅延は、神の忍耐と哀れみの期間でしかないのです。いかに長く神が忍耐してくださったかを見て、悔い改めへと招く御言葉に聞く信仰がエルサレムに求められていました。しかし、エルサレムはその信仰をあらわすことはなかった。そこにその審きを避け得ない現実を自ら招き寄せた罪を認めなければなりません。その認識なくして希望への転換はありえません。この審きの言葉の背後にある悔い改めへの招きを聞き逃さないことが大切です。そしてそれはを、私たちの生き方に対しても反省を求める言葉として与えられているという思いで聞くことが大切です。

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