エレミヤ書講解

4.エレミヤ書2章1-13節 『生ける水』

エレミヤ書2-6章には、「ヨシヤ王の時代、エレミヤの活動の最初期の預言の言葉が包括されている」(ヴァイザー)という見方と、「エレミヤがその職務を果たしたいろいろな時期に由来する」(ニコルソン)という見方があり、単純に断定できませんが、ここにはイスラエルとユダの背信の罪に対する告発の言葉が記されています。

2章1-13節には、民の歴史を背景にした告発の言葉が記されています。エレミヤの派遣記事(1:11-16)は、預言者による審判の告知とその理由付けの二つの部分からなることを明らかにしていますが、ここにはその基本構造を踏まえたエレミヤの告発の言葉が記されています。

エレミヤは、「行って、エルサレムの人々に呼びかけ、耳を傾けさせよ。」という主の委託を受け、神が民に下そうとしておられる審判の言葉を告知しました。それが彼のつとめであったからです。エレミヤはホセアの影響を強く受けた預言者であるといわれますが、特に初期の預言の言葉にはその強い影響が認められます。中でも次の言葉にはホセアの影響が見られます。

わたしは、あなたの若いときの真心
花嫁のときの愛
種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。(2節)

「真心」は、ヘブル語ではヘセドです。この語は多様で豊かな意味を持つ語で、旧約聖書において、「忠誠、不動、確固たる愛、忠実の本質を述べるために使用され」、ホセアが好んだ語です。ホセアは神がその民になす要求を要約するためにヘセドを用いています(ホセア書6章6節)。エレミヤはここでホセアと同じ様にこの語を用いています。

出エジプトとシナイ山における契約締結の中間の時代は、イスラエルのあり方を示す決定的出発点として、ホセアとエレミヤは共通認識を示しています。この時代こそ、神の民の生成に決定的な役割を果たした救済史の一時期でありました。エレミヤはそれを2節において「花嫁のとき」と呼んでいます。ヤハウェとの契約を結婚契約として捉え、相互の愛と真実によって支えられていた神と民との関係が強調されています。神はイスラエルの「若いとき」、即ち、「種蒔かれぬ地、荒れ野での従順」を思い起こし、イスラエルをその想起の前に立たせます。3節において、神と民の関係が何を意味していたかが語られます。そこでは、「イスラエルは主にささげられたもの」として、聖なるものとされ、また「収穫の初穂」として、イスラエルは神に属するものとされているので、いかなる第三者もこの収穫の初穂に権利を主張することはできないといわれています。それゆえ、契約の民に攻撃を仕掛けた民族は「それを食べる者」として、「みな罰せられ、災いを被った」といって、神によって倒された事実が明らかにされています。

夫としての神と、花嫁としてのイスラエルの蜜月の理想のときは、カナンに入る前の荒れ野の時代で、カナンの沃地に入ると、イスラエルはバアルに誘惑され、バアルと姦淫しました。それがイスラエルの滅んだ理由でありました。4節以下の預言は、この主題の下に語られています。

神がイスラエルを非難し訴えるのは、主を捨てバアルに従ったからです。バアルの名が何度も言及されていますが(8,23)、それは「空しいもの」(5節)、「助けにならぬもの」(8,11節)、「神でないもの」(11節)と呼ばれています。バアルと姦淫する場所は、「高い丘の上」、「緑の木の下」(20節)、「裸の山々」(3章2,21,23節)です。そうした場所で、「彼らは木に向かって、『わたしの父』と言い、石に向かって、『わたしを産んだ母』」(27節)と呼んで、それらを神として礼拝していました。

4-8節において、イスラエルの背信の歴史が回顧されています。主は、「お前たちの先祖は、わたしにどんなおちどがあったので、遠く離れて行ったのか。」(5節)と問いかけておられます。主が期待したのは、ご自身に対する信仰の応答です。しかし、イスラエルはなすべき信仰の応答をせず、「彼らは空しいものの後を追い、空しいものとなってしまった。」といわれています。カナンの地で困窮や危機に陥ったときに、何よりもすべきことは「主を尋ね求める」ことでありました。出エジプトから荒れ野の旅を導かれた方が、カナンの地におけるどのような現実の中でも共におられるという変わることない事実に目を留め、そのような不変の主を尋ね求める信仰の応答を期待しておられました。しかし、イスラエルの民は誰もそのように主を求めなかったと告発されています。

次に、「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き/味の良い果物を食べさせた。」(7節)と述べて、イスラエルに示した恵みの事実が明らかにされています。その恵みに対する応答として、その地でただ主をのみ拝し、その土地を主の嗣業の地として、祝されたものとして受けとめる信仰が求められました。「ところが、お前たちはわたしの土地に入ると、そこを汚し、わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた。」といって告発されています。

主への信仰を育てなかった罪深き者として、8節において、祭司、指導者、預言者の名が上げられています。祭儀と慣習の中で伝統を守るべく委託されていたのは祭司たちでありました。しかし、彼らは神の教えを尋ねず神を顧みることをしません。「指導者たち」とは、王やその側近たちです。彼らは民の前に契約に対する誠実の模範となる代わりに、「不実」への誘惑者になり下がっていました。さらに驚くべきことに、神の使者たるべき預言者たちは神に聞くことを拒み、バアルに仕えていました。エレミヤはこのような預言者たちに対する怒りを、23章9-11節において以下のように明らかにしています。

預言者たちについて。わたしの心臓はわたしのうちに破れ
骨はすべて力を失った。
わたしは酔いどれのように
酒にのまれた男のようになった。
それは、主のゆえ/その聖なる言葉のゆえである。
姦淫する者がこの国に満ちている。
国土は呪われて喪に服し 荒れ野の牧場も干上がる。
彼らは悪の道を走り/不正にその力を使う。
預言者も祭司も汚れ
神殿の中でさえわたしは彼らの悪を見たと/主は言われる。

このような状態であったから、民の多くが彼らを真似て、彼らとともに背き、無力な神々へと堕していったとしても、別に不思議なことではありません。

しかし、これらの罪は、まことに、「生ける水の源であるわたしを捨てる」(2章13節)行為に他なりません。
「それゆえ、わたしはお前たちをあらためて告発し、また、お前たちの子孫と争う」(9節)という主の告発は、イスラエルが神の愛と恵みの業をないがしろにした歴史を背景にして語られています。

10-11節には、諸国民の法廷の場で行なわれ民に対する神の告発が語られています。キティムは、キプロス島をはじめ、東地中海の島々を指し、ケダルは、アラビアの部族の名です。それらの地で「よく調べさせよ」とは、地中海の島々に渡っても、アラビアの砂漠の部族を訪ねても、自分の神を取り替えた者はない、しかも「神でないもの」と取り替えたものもない、という事実を確認するためです。この事実を確認した上で、「ところが、わが民はおのが栄光を助けにならぬものと取り替えた。」(11節)といって、わが民イスラエルの罪を告発しています。それは諸国民にも劣るイスラエルの驚くべき背信として告発されています。

12-13節において、その法廷は、「天よ、驚け、このことを、大いに、震えおののけ」といって、宇宙に広げられています。ここでは二つの悪事が告発されています。第一の悪事は、生ける水の源である神を捨てたことです。第二の悪事は、無用の水溜を掘ったことです。

神が生ける水の源であるという主張は、聖書全体に貫かれている信仰です。人間が生きるうえで必要不可欠なものは神が備えてくださいます。有名な詩編23編には、主が羊飼いとして、青草の原に休ませて憩いを与えられるだけでなく、「憩いの水のほとりに伴ない、魂を生き返らせる」働きをしてくださるお方として告白されています。イザヤ書58章11節には、

主は常にあなたを導き
焼けつく地であなたの渇きをいやし
骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。

という言葉があります。イザヤ書55章には、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。・・耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」という慰めに満ちた招きの言葉が記されています。

エゼキエル書47章には、主の神殿に流れる「川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」という言葉が記されています。

人間の渇きが問題となっている場合には(ヨハネ福音書4章)、単純に人の乾き、それ自体が問題となっています。その渇きを癒すことのできる者は、神のほかにはいません。これが旧新約聖書全体の主張です。それはエレミヤの使信の中にも貫かれています。

「生ける水の源である神」を捨てる者は、「無用の水溜めを掘る」二重の罪を犯します。まことの神ならぬ偶像の神を持ち、偶像の神を礼拝する歩みは、「無用の水溜めを掘る」無駄な努力に終わります。しかし、生ける水であるまことの神は、渇きを癒し、人の魂に命と活力を与えることができます。

神ご自身が生ける水であり、神の御言葉は、まさにそのような「生ける水」として人の渇きを癒し、人の魂に命と活力を与えることができます。エレミヤはそのような「生ける水」に関わる職務を遂行する預言者として立てられたことを自覚し、神の言葉こそが、人を活かすものであることをこのように告げているのであります。

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