ホセア書講解

11.ホセア書4章11-15節『悟りのない民は滅びる』

4-14節は祭司に向けられた預言であるが、4-10節までは祭司に直接向けられて語られており、11-14節は、直接的には民の祭儀上の罪を糾弾する預言である。しかし、民を正しい神礼拝に導かなかったことと、知識のない状態にしたこと(14節「悟りのない民は滅びる」)についての責任は、祭司にある。この点で、11-14節は、祭司を非難する言葉(4-10節)と実質的に関連がある。

ここに描かれているのは「迷える民」の姿である。バアル化したイスラエルの祭儀の混乱は、祭司が正しい神礼拝に導かなかった結果もたらされたものであった。「悟りのない民は滅びる」(14節)という警告の言葉は、そのまま民を正しい神礼拝に導く知識を与えなかった祭司に対する審きの警告となっているのを覚えねばならない。その無知によるイスラエルの宗教的混乱はどの点にあったか、11-13節において明らかにされている。

「新しい酒」という語は、ここでは自然の力を崇拝するバアル祭儀の象徴として解されている。バアルの祭儀において、エクスタシーの快感を味わうためにアルコールが用いられた。そこでは、神殿娼婦たちとの交わりによる性的な陶酔も演じられた。11節の「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う」という言葉は、そのようなアルコールや性的エクスタシーによる感覚的陶酔を特徴とした祭儀の結果生ずる、完全な混乱状態を指摘している。元来、ヤーウェの契約祭儀を純正な形で守り、それを教え伝える務めにつくべき祭司が、このような偽りの祭儀を助長し、ヤーウェの教えを忘れ、真の知識を放棄してしまっていた。ここにイスラエルの一番大きな悲劇があった。民が酔ったようになって、分別も規律も秩序もなしに暮らしているとすれば、それは祭司の責任であった。預言者ホセアは、その叱責の言葉を、祭司に向けて語っているのである。

そして、いくぶん皮肉をこめ、しかし、神の憐れみの調子を響かせながら、「わが民は」とホセアは語る。ホセアは、偶像に神託を受ける民の迷信的な習慣を糾弾する。ここには、民が木に向かって託宣を求める姿が描かれている。この言葉だけでは、この木が、木で作られた「神像」なのか、礼拝の対象にされた木の神(13節,エゼキエル6:13)なのか、それとも神意を伺うために用いる「棒」なのかはっきりしない。いずれにせよ、ホセアは、そのような神託を受ける習慣そのものが、ヤーウェへの背反であると語っている。そのような行為が、ヤーウェ宗教の中に取り入れられ行われていたとしても、明らかに「主の言葉」(4章1節)にある神の命令と何の関係もないものであった。ホセアにとって、それは、「淫行の霊」にとりつかれた民の迷いの姿以外の何ものでもなかった。ホセアは、主の霊から導かれる霊的な内面性と、迷信の物質的世界から導かれるエクスタシーの宗教性を、峻別している。それを「神から離れた淫行にふける」ことであると非難している。このホセアの非難は、1節で明らかにされた主と民のあり方から理解されねばならない。ヤーウェと民の関係は、「誠実」(エメト)と「慈しみ」(ヘセド)において規定され、民の神への真の態度は、神の慈しみ(ヘセド)を受けるものとしての感謝の思いから出る「忠誠」(エメト)の義務を果たすことにある。この点が理解されるとき、このホセアの非難を初めて理解することができる。ホセアのように、真の信仰が生きて働いているところでこそ、「神のもとを離れて淫行にふける」邪悪な信仰と迷信の正体を暴露することができる。言い換えれば、「主の言葉を聞き」(1節)、主の言葉に生きていない者には、自分がどれだけ邪悪で迷信に満ちた生き方をしているか気づくことさえできなくなっている、ということを意味する。民に正しい言葉を語り、正しい知識による礼拝を導く祭司がいないことの悲惨さをホセアは同時に告発し、非難しているのである。

民は、自分たちはヤーウェを礼拝していると信じて、「山々の頂き」や聖樹と考えられていた「樫、ポプラ、テレビンの木」の下で礼拝していた。しかし、ホセアはそれを偶像礼拝として糾弾する。「木陰は快いからだ」という皮肉は、それらの自然祭祀の持つ本質を射る言葉である。そこには、感覚的な喜びはあるが、聖なる神の厳粛さ(神の言葉)に束縛されない、人を内面からそのあり方を変革しない、ますます感覚的な喜びだけに生きるよう動かす「麻薬的力」のようなものでしかない。真の宗教は、人生の転換が求められているときに力を発揮するものである。しかし、偽りの宗教は一時の快に人を留め、偽りの喜びを味合わせ、混乱と悲惨に終らせる。

「嫁も姦淫を行う。」(13節)この言葉は、愛する妻ゴメルの姦淫による深い悲しみと苦悩を知っているホセアの言葉だけに、重みがあり、その苦悩の深さが際立っている。しかし、ホセア自身が味わう苦悩は、身から出たほころびの苦悩ではない。この場合の苦悩は、民の霊的指導者たるべき祭司たちの「悪しき手本」から生じる「ほころび」として、ホセアは「わたしはとがめはしない」(14節)と語るのである。この悪しき手本を見て堕落した「嫁の姦淫」と「娘の淫行」は、神に背反する「淫行の霊」(12節)からでた、民の宗教性に内在するものであった。それゆえ、ホセアの目に見えるものは、そこに支配しているのが、その霊にとらわれている民を自ら滅ぶままにまかせている神の審きという内在的な法則の力にほかならない。

14節は、イスラエルの堕落した現実を赤裸々に描いている。ホセアはここで姦淫の女たちを免責しようとしているのではない。その罪を告発しながら、「わたしはとがめはしない」といって罰しないでいるのは、民を「姦淫の女」にした親(祭司や神殿付預言者)たちの負うべき責任を明らかにし、その責任を追及するためである。ここに告発されている女たちの姦淫の罪は、第一時的なものではない。それは、祭祀の中で男たちが育ててきた「淫行の霊」の果実であって、その霊がすべてのものにとりついていた、というのである。

預言者ホセアは、自ら神との関係から与えられた確固不動の判断をもって、このイスラエルにみられる風習の誤りを暴露し、そのように崩壊していくところに人間の罪を認める。しかし同時に「淫行の霊」に支配されるカナン化・バアル化したイスラエルが行き着く、だれもそれを咎めることができなくなっている現実にこそ、実は最も深い神の審きがある。この神の審きは、神の現実性についての感覚も、人間の真実と現実性についての感覚をも、麻痺させてしまう。神の現実を語り伝えるべき祭司が、役に立たなくなっているために、民は、神の現実性についての感覚も、人間の真実と現実性についての感覚をももてなくなっているのである。だから民は悟りのないものになってしまっている。

「悟りのない民は滅びる。」(14節)預言者ホセアはこの言葉を、神の冒すことのできない聖性を明らかにしつつ、悟りのない民への思いやりから語っている。その民の罪に、本来の責任を負うのは、霊的指導者たる祭司であり預言者である。ホセアは、その責任を明らかにする。だからといって民を免責することはない。神の現実には、二つの面がある。その憐れみと、聖なる審きの厳粛さ、とである。

「悟りのない民は滅びる。」ホセアは、この言葉を民に向け語ることによって、霊的指導者を失った民への、直接的な悔い改めの呼びかけとしている。自分の妻ゴメルの背信に苦悩する、ホセアの妻へ対する変わらぬ愛をもつ呼びかけでもある。

15節は、ホセアの預言ではない。イスラエルのように罪を犯すなとのユダへの警告を与えるために行ったユダ側の傍注である。この傍注は、アモスの言葉を借りて(アモス5:5,8:14)いる。ギルガルとベテルとは聖所をさす。聖所への巡礼に対する警告として語られている。ベテルは、アブラハムがヤーウェの祭壇を築いたところとして有名であった(創世記12:8,13:4)が、この場所で偶像礼拝が行われていたので、ここではベテルのことをベート(家)・アーベン(悪)「悪の家」と呼ばれたのだろう。この傍注は、後のユダにおいて、人々がホセアとアモスの預言の書を、神の言葉として読み、解釈していたことを示している。それはまた、わたしたちのこの預言に対する聞き方のあり方をも示す意味で興味深い。

旧約聖書講解