詩編講解

23.詩篇31篇『御手に委ねて』

この詩篇は「嘆きと感謝の祈り」です。この詩篇の作者は、長患いに苦しみ(10-11節)、おごり高ぶる敵たちから中傷と迫害を受け(5、19、21節)、友人たちからは疎まれ(12節)、死の圧倒的な力に脅かされていました(14、6節)。彼はそのような状況の中で神の下に身を避けました。

この詩は、苦難の最中に魂が神に避け所を求め、それを見出すまでの感情・気分・思考の生きた動きを忠実に再現しています。そして、この詩篇の作者は、あるがままの姿で神の前に歩み出で、見えざる手に導かれて祈りつつ、彼自身の切迫した祈願のうちに示されている恐れとおののきの中から、慰めと力の方へと進んでいくことができました。この慰めと力は、作者が神の隠された慈しみにより頼むことによって豊かに与えられました。こうして、わたしたちは神の広い心に対する洞察を与えられます。祈り手は、神に心を委ね、それによって彼自身が、苦難にあって慰めを必要としている同行者に対する道案内人となり、慰め手となっています。

主よ、御もとに身を寄せます。
とこしえに恥に落とすことなく
恵みの御業によってわたしを助けてください。
あなたの耳をわたしに傾け
急いでわたしを救い出してください。
砦の岩、城塞となってお救いください。(2,3節)

詩人はこのように祈り、迫害者たちの手から聖所に逃れて、神のみもとに身を寄せています。彼が矢継ぎ早に述べていることばには、手遅れにならないうちに、苦難から「逃れる」という彼の信仰が表れています。しかし、この避難は、恐怖に襲われた人間が、根無し草にされてしまって、当てもなく、うろついているのとは違います。この祈り手には、確かな行き先が与えられています。それは、神の下です。彼はただ懇願するだけではなく、神に対する自分の信頼を繰り返し述べています。岩や砦や要塞は、そこに退く戦士を守ります。そのように、神は、祈り手の後楯となって援護してくださる、という揺るぎない神への彼の信仰がここに表されているのであります。

神の後楯が彼にとっていかなるものであるかが、6節のことばの中に表されています。

まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
わたしを贖ってください。(6節)

「主よ、御手にわたしの霊を委ねます」ということばは、主イエスの最期のことばとして、また、キリスト教会最初の殉教者となったステパノが引用したことによって、キリスト教会の中で特別な意味が与えられ、特別な位置を占めることになりました。伝承によれば、使徒教父でスミルナの司祭をして殉教者となったポリュカルポスや、ルターもこの言葉に看取られて臨終を迎えたと言われています。

この詩篇の作者は、この言葉によって自分の命を神の手に委ねています。神の御心へ委ねることは、諦めの宿命論とは無縁です。作者は、委ねる相手を知っています。神を「まことの神」と告白し、神の「まこと」こそ、自分を支えてくれる堅固な拠り所であることを知っているのであります。祈り手は、このまことのうちにかくまわれているだけでなく、彼を圧迫するすべてのものから「贖われ」、解き放たれているのであります。作者は、神のまことを自分の生涯において経験することを許されたのであります。この経験があるからこそ、作者は、現在置かれている苦難の下からも贖い出されるという、確かな希望を持つことができるのであります。

慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。
あなたはわたしの苦しみを御覧になり
わたしの魂の悩みを知ってくださいました。
わたしを敵の手に渡すことなく
わたしの足を広い所に立たせてくださいました。(8,9節)

この詩人は、このように神を見上げることによって、自分をさいなむ不安を取り除くすべを知ることができ、彼はこれまでよりも鮮明に、かつ冷静に事態を見極めることができたことを歌っているのであります。

10-14節において、苦難への道が歌われています。
祈りつつ神のみもとに身を寄せ、支えの拠点を与えられた上で初めて、作者は自分の訴えを述べています。人は自分を理解してくれる人に心を打ち明けることによって楽になり、孤独の痛みから解放されることを知っています。彼は、人間の友達からは忌避されて見放されました。しかし、神御自身が耳を傾けて彼の悩みを聞いてくださる、このことを彼は、神の大いなる恵みの賜物であると感じとっているのであります。それゆえ、神への訴えにおいて再び彼が自分の苦難を物語るとしても、今度は今までとまったく違って、神の目と導きの手に守られているのであります。それゆえ、彼の心は、もはや苦難から逃避することはありません。それを積極的に受けて立つことができます。作者は、苦難を真正面から見据えることによって、苦難を対象化し、それを神の目で見ることを学び、神の導きによって苦難を克服することを知ったのであります。神の御前にもち出された苦しみは、既に何程か克服されているのであります。この祈り手は、神の御前に人間的には八方塞がりの状況にあるのを悟って、完全に自分が神の手に引き渡されていることを自覚しました。かくて彼の苦しみが、彼を直ちに神の腕に飛び込ませるのであります。

そして、15-19節において、この祈りは神への道に向けられます。

主よ、わたしはなお、あなたに信頼し
「あなたこそわたしの神」と申します。(15節)

作者はいま、その眼差しを、自分の苦難から神の方に転じて、祈願を新たにします。それによって、苦しみの最中に自分の方に差し延べられている、見えざる神の御手をしっかり握ることになります。孤独の中にあった作者は、真の対話の相手を神に見出します。彼が人間の交わりにおいて失ったすべてを償って余りある交わりが、そこにあります。この詩人は、苦しみの最中にあっても、自分がこれまで常に信頼してきた神に委ねられていることを感じ取っているのであります。だからこそ、彼は神の腕に身を投げかけ、「あなたこそわたしの神」と告白するのであります。彼は奴隷が主人のものであるように、自分が主の手に渡されているのを知っています。それゆえ、彼は安心して神に身柄を引き渡し、自分の運命を神の御手に委ねます。なぜなら、彼の心は罪に打ちひしがれているにもかかわらず、己が身を委ねて、助けと祝福を求める相手は、恵みの神にほかならないということを知っているからであります。

祈るときに、作者が一番心掛けていることは、自分の祈りが辱められないことであります。すなわちそれは、神の恵みに対する信頼が失われないことであります。神の臨在に対する揺るぎない信仰を欠くとき、祈りそのものが失われることになるからです。

神への道は、祈り手を苦しみから目をそらせるのではなく、苦しみの中をくぐらせ、同時に苦しみを乗り越えさせるのであります。それは、祈願から希望への道、信頼から確信、信頼から神を見るに至る道であります。この祈り手は、自分の生をついに神の目で見ることを学びとったのであります。

神の御心への洞察は、自分自身の心への洞察を深めます。彼は、自分が神から遠ざけられていることを恐れていたのは、信仰が弱ったせいであり、今やそれが自分の罪であることを悟って悔いているのであります。しかも同時に、彼は、神が祈りを聞き届けてくださることを確信しうる者となるのであります。このこともまた神の隠された働きであります。今や、苦難の最後の影も、彼の前から退いてしまいました。もはや、詩人と神とのあいだを引き裂くものは何もありません。苦しみすら、割り込む余地はありません。なぜなら、今や苦しみこそ、彼をますます親密に強固に神に結びつける仲立ちとなったからであります。

そして彼は、神から自分に与えられた慰めによって、人々を慰めることができるようになりました。24、25節の力強い呼びかけが、それを証ししています。

主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。
主は信仰ある人を守り
傲慢な者には厳しく報いられる。
雄々しくあれ、心を強くせよ
主を待ち望む人はすべて。

苦難の中でこそ、主の慈しみを期待して、御手に委ねる信仰が必要でありますが、多くの人は、そこで心を弱らせうろたえてしまいます。しかし、そこで主に委ね信仰に生きる人を、主は守られる、とこの詩人は語っているのであります。このように御手に委ねる信仰をいつも持ち、主を待ち望む者として生き、主の恵みを確信して歩みたく思います。

旧約聖書講解