エレミヤ書講解

1.エレミヤ書1章1-3節『エレミヤの時代とその使信』

(1)エレミヤの活動とその時代

エレミヤの名は、ヘブライ語では「イルメヤーフ」と呼びます。その意味は、「ヤハウエが高める(ように)」です。エレミヤが預言者として召命を受けたのは、ユダの王ヨシヤ(前640-609 )の治世第13年、すなわち前627年です。それは「律法の書」が発見され、ヨシヤが宗教改革を断行した年より5年前で、アモツの子イザヤの召命(前737年)から110年後のことです。彼は、「若者に過ぎない」(1:6)といって預言者になることを固辞していますので、生まれたのは前650年以降と考えられます。だとすれば、彼はマナセ(在位、前697-642年)、アモン(前642-640年)の両王の時代に幼少期を過ごしたことになります。この時代、ユダには異教崇拝が流布し、ヤハウエ宗教はバアル化し、聖所における淫行や小児犠牲などが行なわれていました。エレミヤはそのような環境の中で育ちました。エレミヤは、エルサレムの北約5キロに位置するアナトテの出身で、祭司ヒルキヤの子であったといわれていますが(1:1)、エレミヤ自身が祭司であったという証拠はありません。しかし、エレミヤ自身は、ヤハウエ宗教の厳格な祭司的伝統の下に教育を受けたと思われます。

エレミヤの預言者として活動は40年余りに及びます。それはユダの最後の五人の王の治世のときにあたり、ヨシヤの下で新しくされた希望(宗教改革)をもって始まったにもかかわらず、ネブカドネザル治下のバビロンの手でユダが衰退して滅亡し、エルサレムが陥落し、国の主だった者は捕囚とされる時代でありました。

エレミヤが預言者として召命を受けた当時オリエント世界を支配していたのは、世界帝国アッシリアですが、彼が成人するまでにアッシリアの勢力は衰退し始めていました。アッシュルバニパルの時代にすでにエジプトはアッシリアの支配から脱し、前625年、バビロンはカルデア人ナボポラッサルのもとで、アッシリアの支配から独立し、彼は新バビロン帝国の開祖となりました。前612年にアッシリアの首都ニネベがメディアとスキタイの同盟軍の手によって陥落しました。アッシリアの王アシュル・ウバリトはハランを奪回しようとエジプトのファラオ・ネコの支援を要請し、バビロンの優位を恐れていたネコは、アッシリアに援軍を送りました。この争いにヨシヤ王は巻き込まれることになります。ヨシヤ王は、アッシリア勢力の復活をいかなる形でも望まなかったので、ヨシヤは、バビロンと戦うアッシリアを助けるためにエジプトが進軍してゆくのを阻止しようとメギドでエジプト軍と迎え撃つ敵となりました。しかしヨシヤはその戦いで戦死してしまいます。ヨシヤの戦死によって、その宗教改革は完全に挫折し、政治的にもユダは滅亡の道を早めることになります。

エジプトはアッシリアを助けることには失敗しますが、シリア・パレスチナにおける支配権を再び獲得し、ヨシヤの死後、王位を継いだその子エホアハズ(シャルム)は、僅か3ヵ月統治しただけで、エジプトのネコによって退位させられます。ネコはヨシヤのもうひとりの子ヨヤキムを王位につけ(エレミヤ22:10-12)、ヨヤキム(前609-589年)の下でユダは前605年に至るまでエジプトに従属し続けました。エジプトはユダから重い貢物を厳しく取り立てましたが、これが国民に対して重い経済的負担でないかのように見せるために、ヨヤキムは、自分のために壮大な新宮殿を建て始めました。

このことのゆえに、ヨヤキムはエレミヤから手厳しい批判を受けました(エレミヤ22:13-17)。ヨヤキムは、父ヨシヤと正反対の人で、専制君主であったばかりでなく、父ヨシヤによって行われた改革を後退させ、エレミヤの最も恨み重なる敵となりました。ヨヤキムはエレミヤに似たメッセージを語るウリヤという預言者を処刑しました(エレミヤ26:20-24)。ある国家役人によってエレミヤに保護が与えられなかったら、彼もまたヨヤキムによって殺されていたかもしれません。

ヨシヤの改革に対してエレミヤがどのような態度をとったかは、推測することしかできません。エレミヤが熱心に改革を支持したことを示す唯一の章句(エレミヤ11:1~17)はエレミヤではなく、申命記的編集者に由来するものであると考えられるからです。しかしながら、エレミヤはヨシヤを尊敬し、ヨシヤの熱心な改革によって喚起された希望に彼が与かったという公算は強いと思われます(エレミヤ22:15-16)。実際、改革の結果、エレミヤが数年間その職務から退いたという可能性もあります。ヨシヤの治世期間中のエレミヤの活動についての情報が欠けているのは、これらのことと関係があるのかもしれません。しかし、時と共にエレミヤがその改革について幻滅を感じるに至ったことは間違いありません。明らかに、改革の土台であった律法があるグループの中で新しい正統主義の土台となり、その結果、安易な自己満足に陥って、常に新しく挑戦的である神の言葉に対して、国民を盲目にしたからです。いわば、律法は物神崇拝化されていきました(エレミヤ8:8-9 )。

26章1節には、ヨヤキムの治世の初めにエレミヤが神殿説教を行ったことが記録されています。その説教の中でエレミヤは、エルサレムに神殿が単に現存しているだけで、神に対する反逆の故に国民に下される神の裁きを回避するための保証となるという当時の通俗的信仰を偽りであると非難しました。この説教自体がヨシヤの改革がもはや効力を失っていたことを示しています。

エレミヤはヨヤキム王の容赦しない敵となって、国民に対して下される神の裁きが不可避であることを宣言しました。「北からの敵」(バビロン)によってその国にもたらされるべき荒廃を告げる託宣がエレミヤによって宣言されたのは、恐らくヨヤキム治世の初期の間であったと考えられます。

前605年にネブカドネザルはユーフラテス川畔カルケミシュでエジプトを打ち負かしたが、パレスチナに侵入することは未決定にしておかれました。それまでにエレミヤは語らねばならない託宣の巻物を編纂するように促され、書記バルクによって神殿でそれらをひとまとめにして再宣言するようにさせられたのは、恐らくこれらの出来事の故だと考えられます(36章参照)。その時点まで、裁きについてのエレミヤの託宣は偽りとして無視され、あるいは忘れ去られていたとしても、今起こってきた新しい状況の中で、彼の確信は今や著しく動揺させられた人々に対して恐るべき意義を与えることになりました。恐るべきことに、「北からの敵」が現実に現れてしまったからです。

この時国民に大きく迫ってきた危険は、前604年にヨヤキムがバビロンに屈伏したときに回避されました。しかし、ネブカドネザルに対するヨヤキムの忠誠は束の間で、前601年にバビロンとエジプトとの間で戦争が起こると、ヨヤキムはネブカドネザルに反逆しました。しばらくの間ネブカドネザルはユダの反逆を鎮圧するために進軍することができず、アラム、モアブ、アンモンなどの分遣隊を雇ってヨヤキムを悩ませましたたが、前598年の終わり近くになって、バビロン軍がユダに侵入してエルサレムを包囲攻撃しました。ヨヤキムは死に(暗殺されたのかもしれない)、彼の18歳の息子ヨヤキンが後を継ぎますが、僅か3ヵ月後の前597年にエルサレムは陥落します。その時、彼はその母、様々な官吏や最上流市民たちと共にバビロン捕囚に連行されました(エレミヤ13:19、22:24-27を参照)。そのため、ヨヤキムのおじであるマッタニヤ(ゼデキヤ)が王となります。

ゼデキヤは貴族たちによって操縦されやすい弱い支配者でありました。ヨヤキンが捕囚中であったにもかかわらず、バビロンによってユダの王であると公式に認められていたらしく、捕囚民自身もヨヤキンを王と認めました。他方、ユダ本国においては、ヨヤキンと捕囚民が間もなくエルサレムに連れ戻されると一般に信じられていました(28:1-4)。ゼデキヤの地位が強化されなかったのは、こうした事情が関係していたと思われます。

神がすぐにもバビロンの権力を滅ぼし、捕囚民を故国に帰らせるという信仰が、紀元前597年の後に起こってきていました。しかし、エレミヤはこの楽観的信仰を厳しく戒めました。エレミヤは、バビロンのくびきがユダばかりでなく、シリア・パレスチナの他の諸王国の首の上にも留まると告知しました(28章)。同時にエレミヤは神の祝福が既に捕囚中の人々の上にあって、国民の将来の回復はこれらの捕囚民を通して神によってもたらされるが(24章)、他方、故国に残っている人々は彼らに間もなく降りかかる神の裁きの下にあると宣言しました。エレミヤは、バビロンにいた捕囚民に手紙を書いて彼らに定住を勧め、彼らに対する神の配慮と、彼らが最終的には束縛から救われることを彼らに確信させました(29章)。このことのゆえに、エレミヤはますます同国人の悪口の対象となりました。

前598-597年にバビロンによってユダとエルサレムに加えられた攻撃とその悲惨な結果にもかかわらず、反逆の精神は消えませんでした。前594年にバビロンで起こった動乱に乗じ(29:21-23)、ゼデキヤはバビロンに対する反逆の意図をもってエドムとモアブとツロとの間で試みられた連合に与しますが、この試みからは何の結果も生じませんでした。前589年まで、ゼデキヤはバビロンとのかかわりあうことを取り消せないでいました。この時、前597年の失敗と捕囚が間もなく逆転すると約束する偽預言者によって支持された民族主義的精神が再び主張されました。

エジプトはゼデキヤを激励し、軍事的に後援することを保証しました。これに対してネブカドネザルは遅滞なく攻撃を加えました。前588年バビロン軍はエルサレムに到着し、これを包囲攻撃しました。エジプトの援助が具体化して、エルサレムに対する包囲を解くようにバビロンが強いられた時、エルサレムは短い執行猶予のときを得ることができました(37:3-5)。しかし、エジプトは速やかにバビロンによって敗走させられ、バビロンは直ちにエルサレムを再包囲しました。抵抗は数カ月にわたって続きましたが、ゼデキヤは降伏し和平を請い求めようとしました。

ゼデキヤは、ネブカドネザルに従属することを初めから要求していたエレミヤに相談しました(21:1-7,37:1-10,17-18, 38:14-23)。エレミヤは降伏をすべく忠告しましたが、エレミヤのメッセージと忠告にもかかわらず、町の食糧が尽きてしまう前587年まで抵抗は続けられました(52:5-6)。ゼデキヤは逃亡を試みたがエリコで捕らえられ、リブラにいたネブカドネザルの下に連行され、そこでゼデキヤの息子たちが処刑され、ゼデキヤ自身は、息子たちの死を目撃した後、目を抉り取られて盲目にされた上で、鎖に繋がれてバビロンに連行されました。こうしてゼデキヤはバビロンで死に、エルサレム神殿は焼き払われ、さらに多くのユダの人々がバビロンに追放されることになりました。しかしエレミヤは、バビロンによって解放されます(39:11-14、40:1-6 )。

ネブカドネザルはゲダリヤ(エレミヤを保護した高級官吏アヒカムの息子)を総督に任命しました。ゲダリヤの行政の中心はミズパにありました。エレミヤはその地に留まりました。そしてエレミヤは、ミズパにいた人々にその地に留まるようは警告しましたが(42:7-22 )、彼らはバビロンから仕返しされることを恐れて、エジプトに逃げただけでなく、預言者エレミヤを強いて自分たちと一緒にエジプトに連れて行きました。エレミヤはエジプトで死にます。

(2)エレミヤの人となりとその使命

エレミヤは、その召命のときに示された主の言葉に明らかにされているように、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」(1:10)召された預言者でありました。エレミヤは、イスラエルの最後の日々に、人々と共に、いわば彼らの身代わりとなって苦しんだ人物です。エレミヤは、人間的天分からすれば、繊細で、考えることの好きな性質の持ち主でありました。静かな内省と人との純粋な喜びの中での平和な生活の方が、人々や権力に公然と立ち向かう激しい戦いより彼にふさわしかった(コルニル)。しかし彼に与えられた主の召しは、諸国民の出来事の真っ只中に引き出すことでありました。そうであるが故に国内外の抵抗運動を漠然と予感していたエレミヤは、預言者の使命にしり込みし、内外から来る苦難の道を歩ませることになろうこの神の召命を避けたいと願いました(1:6)。

しかし神は彼を圧倒し、彼をして神に仕えることにおいて信仰による服従の道をとらせました(1:7)。彼は今や、沈黙を望んでも、なお、神の言葉を語らねばならない。次の言葉はエレミヤのその苦悩を語っています。

主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。(エレミヤ書20章9節)

しかし、エレミヤが神の言葉を語るとき、彼は無理解、拒絶、非難、嘲笑、迫害にぶつかります。そのため彼は受けた神の命令を破棄しそうになることが度々ありました(6:10,15:18,20:7以下)。このように戦いの底知れぬ苦悩を味わいながらエレミヤは預言者として語りました。心情において感情深く、やさしいエレミヤはホセアに似ています。実際彼はホセアから多くの影響を受けていると考えられます。

旧約聖書講解