マラキ書講解

1.1章1-5節『わたしはあなたを愛してきた』

1節は、この書全体の表題です。「託宣」(マッサー)は、動詞「上げる、持ち運ぶ」から派生した名詞で、「運ばれたもの」「重荷」の意を含みます。マラキを通して語られた神の言葉は、神からの厳かな「託宣」であると同時に、預言者が好むと好まざるとに関わらず、担うように強いられた「重荷」であり、それほど重要な言葉でありました。

2-5節は、ヤーウェのイスラエルへの愛を告げています。神は選びの民イスラエルに向かって、「わたしはあなたを愛してきた」と主張しています。しかし、民は「どのように愛を示してくださったのか」と、その愛を感じていません。かつて預言者たち(第二イザヤやゼカリヤ)が約束していた、栄光の実現がいまだ見られず、天からの祝福もいまだに注がれず、日々の生活の苦しさはいまだに変わらない民にとって、神の契約を心にとめて生きるのは、空しい徒労のように思えていたたからです。

マラキは、このような民に向かって、神の民への深い関心を示す言葉「愛する」を用いて、神の選びを思い起こさせようとしています(ホセア3:1,11:1参照)。マラキは、ホセアと同じように、神の不変の愛を強調します。その愛は、契約に基づく誠実さ(ヘセド)です。

マラキは、神の誠実さを思い起こさせるために、族長の時代からはじめて未来に至るまでの歴史を振り返ります(2b-4節)。神は、族長時代に、エドムの祖先である双子の兄弟の兄エサウを「憎み」、イスラエルの祖先となった弟ヤコブを「愛した」といいます。この場合の「愛憎」を、紀元前587年のエルサレム崩壊に際しての、エドムのユダに対する非友好的態度に対する反感(オバデヤ10-14節、哀歌4:21-22)が投影した言葉であると解する人もいますが、ここでは、「愛する」と「憎む」という言葉は、文字どおりの意味ではなく、ヤーウェの特別な選びや配慮の有無、を意味するものとして用いられています。

マラキは、母リベカが弟のヤコブを偏愛し、同じく、父イサクがエサウを偏愛した(創25:28)ということを、対立命題形式に換えて神に適用し、「しかし、わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という言葉で表します。人間の知恵の愚かさや、罪過の中で演じられた愛憎の歴史、営為のただ中で、人間の理性には極めがたい方法で、神がご自身の計画を実現された、過去の歴史の中心的意味を思い出すように、預言者マラキは、聴衆に呼びかけています。そして、この神の愛憎において働いたのは、兄弟の側の何か異なる性質といったものが、神の態度決定の基準となったのではないことを、マラキは強調しています。彼らの運命が異なった根拠は、ただ神の側の選びの意思にありました。絶対の自由において、そのことを神が欲したもうたがゆえにヤコブを寵愛した、という神の内に、その根拠がありました。そして、この選びにおいて、神はごく最近の歴史においても変わりなく真実であられることを、マラキは語ります。

それは、歴史の事実に基づいて説明されています。3~4節において、エサウの子孫(創世25:30,36:1以下)であるエドム人を襲った民族的な破局について言及しています。エドムは、前587年のエルサレムの大破局に際して、非友好的態度をとりました(オバデヤ10~14、哀歌4:21~22)。エドムは、エルサレム滅亡後間もなく、ユダヤを波状的に襲って、数世紀の間に、彼らの故国である山岳地帯からアラバの両側に追いやり、南部ユダヤに至ってやっと終わる、という移動を引き起こしました。その結果、南部ユダヤ地方は、そこに浸透してきた新しい移住民(エドム)の名にちなんで、イドマヤと呼ばれるようになります。

この受難史に、マラキは一つの主題を引き出します。エドム人は、いまだにユダヤの山地(「彼の山」=「相続地」)に居住していました。しかし、彼らよりも一層深く侵入してきたナバテヤ(アラビア)人のゆえに、そこは荒地に変えられてしまい、町々は瓦礫の中に横たわっていました。エドム人は、自分たちが征服した土地が、ナバテヤ人に征服されて、その土地を全く見捨てねばならぬという来るべき定めに全く気付かず、再建計画に心を奪われていました。しかし、マラキは、その再建はならないという神の将来の計画は、変わりなく真実であり、エドム人の計画が、全て無に帰されることを知っていました。

マラキは、その認識から4節の主による審判を告げました。その主張は正しかったのです。ここで注目すべきことは、この預言者が、現在の歴史を判断し、神の未来についても知っていたその確信です。その確信とは、神が特別の歴史を持ちたもう相手はイスラエルであって、エドム人ではない、ということです。エドムは、主が「破壊する」と言われるゆえに、滅びていきます。一方、イスラエルは、「イスラエルの境を越えて大いなる方である」主が救済を始められるのを、「自分の目で見」る幸いに与って行きます。

エドムは、神に敵対する者の象徴として、「悪の領域」とか「主の怒りを受けた民」と呼ばれ、実際エドムは、壊滅的な打撃を受け、ユダが救いを体験します。それは、ユダの行いがエドムの行いに勝って正しかったからでも、それ故にユダがエドムより愛されたのでもありません。エドムは、ユダのように愛されなかったから滅びました。それは、神の契約に対する誠実を示す、歴史における事例、としてのみ言及されているに過ぎません。

マラキは、その与えられた信仰から、これらの預言の言葉を告げています。彼の信仰的思考を支配していたのは、まさに、自分の民の過去と、未来の歴史における非合理的なもの、についての認識です。即ち、全てのものに先立つ、神の恵みによって選ばれていること、への深い認識です。その恵みは、神の究極的意志においては、人間の側の態度によって何ら左右されることのないものです。もちろん、信仰の感謝の行為として、律法を守ることが求められますが、マラキは、律法の前に、恵みの神の選び、という福音を先行させて置きます。

「わたしは…愛した」というこの福音的な呼びかけの言葉は、神の歴史教育を含んでいます。マラキは、この歴史の中で示された、反論の余地のない信仰の事実に言及して、「どのようにして愛してくださったのか」という反論に、いかなる余地も与えません。そしてそこから、つい最近経験した自分たちの歴史上の出来事が、もっと深い意味関連をもっていることを認識するように、民を導くのであります。さらに、そこから次の事実を見るよう促します。即ち、ヤコブを愛しエサウを憎んだ神が、今も生きておられ、その変わらない愛の意志において、民の歴史にかかわり、導きを与えておられる、ということを。

マラキが、この聴衆との弁論において意図したことは、救いの到来について動揺している人々の信仰を強めることでありました。改革派教会は、五十周年宣言として「予定の信仰宣言」を出しましたが、その中心に語られているのは、先行する、神のキリストにある選びです。神の不変・永遠の選びは、歴史の中で受ける福音の呼びかけを通して、具現し、確証して行きます。マラキはこれを、神の底知れぬ・こぼち得ぬ愛の対象とされていることを、民をして確証させることによって、成し遂げることができました。マラキは、神の愛が、信仰において働く応答の愛がなければ、愛たり得ないことを認識するよう、民の良心を揺り起こすのであります。少なくとも、これを受ける者が、その真実を認識し得ないことを明らかにするのであります。キリストの十字架の愛を、そのようなものとして今わたしたちは認識しているか、他の誰かの問題ではなく、「わたしの信仰の問題」として受けとめていくこと、が求められています。

旧約聖書講解