イザヤ書講解

12.イザヤ書8:23b-9:6『大いなる解放』

この箇所は、クリスマスに朗読される「ひとりのみどりご」の誕生を告げるメシヤ預言がなされているところです。アッシリア王ティグラテ・ピレセル三世は、前735-732年に、パレスチナ地域を占領支配しました。8章23節bの「海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤ」は、ティグラトピレセルによって、辱められ、占領され、アッシリアの行政区とされた「ドル、ギレアド、メギド」をさしています。イザヤは、その出来事を背景にして、732年からそう遠くないときに、この預言を語りました。

8章23節の「…辱めを受け」と「栄光を受ける」は、ヘブライ語のテキストでは、文字通りには、「…を(彼が)辱める」と、「…に(彼が)栄光を与える」となっています。この訳文に表されていない「彼」は、主なるヤハウエを指しています。つまり、神は、かつてアッシリアがこれらの地域を征服し辱めることをよしとされたが、「後には」、「ひとりのみどりご」(9章5節)によって、これらの地域に自由と喜びが与えられることが語られています。

イザヤはここで、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(9:1)という慰めと希望に満ちた未来の到来を告げていますが、時代はまさに「闇の中」にあり、国土は「死の陰の地」の状態にありました。その希望なき現実を歩むことになった原因は、歴史を導く主を信頼せず、同盟という人間的手段によって危機を回避しようとしたことにありました。この時、シリアと同盟を結び危機を回避しようとしたイスラエル王国は前722年に、アッシリアによって滅ぼされ、民は凌辱され、住民の多くは強制的に移住させられ、外国から連れてこられた異国人と強制的に結婚させられるという大きな辱めを味わうことになりました。

イザヤは、主の審きと救いを表現するのに、創造のモチーフ用いています。神は創造において、混沌の状態に光を与え、秩序あるよき世界に転ぜしめられました(創世記1章1-5節)。イスラエルにとっては、暗闇と混沌からの転換は、神が敵と戦い、神が希望ある未来を開かれることにありました。反対に、審きは、光ある希望の状態から、光を失う暗黒、カオスへの転落にほかなりません。その原因は、神の光である御言葉に聞かない民の背信の罪にありました。

しかし、イスラエルが戦いにおいて敵に破れることは、当時の神観からすると一つの大きな疑問を残すことになりました。古代国家間の争いは、即ち天上の神々の争いと理解されていましたので、それはイスラエルを導く主が、天上の戦いにおいて他の神々に敗北したと受け止められることになりました。だから、そのような審判を下す神を、その神の民とされたイスラエルの方から見限るというリスクを神自身が背負うことになるからです。

出エジプト記32章に、モーセがシナイ山からなかなか下りてこないので、民が騒ぎ出して、アロンに金の子牛像を造らせ、それを神として拝む罪を犯した事件が報告されています。そこで神は大いに怒り、この民を滅ぼし尽くそうとされました。そのときモーセは「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。」(出エジプト32:11-12)といって、その審判を行なわないように主に嘆願したことが報告されています。この神観は、異教世界に囲まれる中で、イスラエルにおいても重要な役割を果たしました。

このような神観が支配する中で、神の裁きが語られ、実行されることは、それ自体に説明が求められます。8章23節の「辱めを受けた」という語の、ヘブライ語聖書の原文が「…を(彼が)辱める」となっているのは、イスラエルを凌辱し滅ぼすのは、アッシリアではなく、主なるヤハウエであることを示しています。アッシリアは主の裁きを行なう道具に過ぎず、この国を滅ぼしたのは、主であると説明しているのです。しかし、「後には」、これら辱めを受けた地に、主が栄光を与えるとの約束が同時に与えられています。9章1節の2行目には、主語がありませんが、その行為の主体は、勿論、主であります。

この希望なき現実を、主の出来事として理解しないなら、それはたまたま北から攻めてきた超大国アッシリアの侵略によって国は滅びたという歴史の客観的な事実しかのこりません。そして、国家的、文化的、軍事的実力の差として説明されることになります。そしてその差は、人間の思いを、回復への希望から完全に断ち切り、暗黒の絶望の淵に追いやるだけとなります。しかし、その国家的崩壊の根本的な原因が、神への信頼の欠如と、自己本位な場当たり的人間的手段による解決に策を弄した主の民としてのあり方を忘れた自己崩壊の結果であるとするなら、希望ある未来への転換を図る道は、イザヤが告げた「落ち着いて、静かにしていなさい」(7:4)、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(7:9)という言葉にもう一度耳を傾け、神に聞く以外にない事が明瞭になります。イザヤはそのような信仰を持って人々が聞くことを期待して、この解放のことばを告げているのであります。

イザヤは、神を「あなたは」と信頼を持って呼んでいます。そこに、民の不信仰と際立ったイザヤの信仰が見られます。上から与えられる神の光は、苦悩と闇の中で生きる民に、「深い喜びと大きな喜びを与える」といわれています。

戦争は刈り入れが終わった頃に行われました。それは、侵略者にとって、十分な分捕りものを得る最良の時であったからです。その時は、収穫を感謝する祭りが祝われる時ですが、侵略された者にとっては、悲しみの日、全てを失う絶望の日となります。戦争に敗れた民を追いかけ、鞭打ち、返り血で地にまみれた軍服で戦利品を分け合って喜ぶ兵士たちの姿を、ぶるぶる震えながら見ていた民に対して、それを全く逆転させる救いの喜びが訪れると、9章2-4節に明らかにされています。

その救いは、かつてギデオンが3万2千人から精鋭300人を選んでミデアン人を打ち破った日のように(士師記6:33-35,8:28)、主が敵を打ち破ることによってイスラエルを敵から解放し、その重いくびきから解き放つことによって訪れると述べられています。捕囚や属州としての支配を受けた人々は、貢納と賦役の重荷に苦しめられ、棒を持った人間からまるで家畜を追いやるように扱われて、労働を強いられました。主なる神は、そのような苦しみからイスラエルを解放する、とイザヤは語ります。ギデオンの場合、ミデアン人からの解放は一定期間なされただけです。しかし、主によって成されるミデアンの日は、将来において、戦争そのものかが不可能となる素晴らしい平和として実現します。最後の大きな戦闘によって、神の敵を打ち負かし、戦士の靴と血にまみれたマントは、使い物にならないように火で焼かれます(9:3,4)。

この救いを実現するのは、「ひとりのみどりご」(5節)であると言われています。この「ひとりのみどりご」が誰であるのか、注解者の間で意見が分かれています。ヒゼキヤだと主張する注解者もいます。部分的には、その考えを支持することも可能ですが、新約聖書はこの預言の成就をイエスの誕生に見ています。究極的には、その成就はその時まで待たなければなりません。

この預言において特に注目すべきことは、「ひとりのみどりご」の持つ、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名です。古代オリエントにおいて、王は神に近い立場にあり、何らかの仕方で地上におけるその代理者-神の肖像、神の化身、神の子、またついには単純に「神」自身であるみなされることがあります。旧約聖書において王が神と呼ばれているのは、イザヤ書のこの箇所と詩編45篇7節だけですが、イスラエルでは、王は即位した際に、神と親子関係に入るという観念も存在します(詩編2:7-8)。しかし、王国とその王制に対する強い疑念も存在します。イザヤにおいて、ダビデ伝承の形で存在する神王イデオロギーが、一つの重要な役割を果たしているとも言われています。エジプトでは、王は神の子だと観念され、王の即位に際し、五つの即位名がつけられます。

ここでは、「ひとりのみどりご」には、四つの名しか記されていませんが、もう一つの名は、インマヌエルであるといわれています。イザヤは神王イデオロギーを用い、来るべき支配者に与えられる即位名を用いたと思われます。しかし、イスラエルの信仰からすれば、排他的な主なるヤハウエに属する王の称号はダビデ家に対して用いられます。6節の「ダビデの王座とその王国の権威」に対する言及は、明らかにそのことを物語っていますし、11章1節の「エッサイの株」への言及もそれを裏付けています。しかし、旧約聖書には、これほど古代オリエント的神王イデオロギーが直接エルサレムの王に転化されている箇所は他にありません。ですから、イザヤは、あえて誰も言う勇気のなかったことを、ここで語っています。この神王名は、表面的にはエジプトのパロの即位名と似ている構造を持ちながら、決定的な相違も示しています。イザヤは、これらの名において、現実の王ことを語るのではなく、来るべきメシヤ的人物のことを語っています。イザヤにおいて、この神王イデオロギーは、「終末化」され、未来に向けて方向付けられています。

11章1節には、ダビデ王家は重大な危機にあったことが示されています。しかし、「エッサイの切り株」が残り、そこから芽が出るとの預言は、確かな希望を語っています。この約束は、アッシリアがエルサレムに進軍することを叙述している10章27b-34節と密接に結びつけられています。それは、ヒゼキヤ王が反乱したペリシテ人と同一行動をとったアシュドドの反乱の時代です。そして、7章のアハズのとったアッシリアとの関係での行動と比較しうるものです。イザヤはその時「インマヌエル」について語り、11章では「エッサイの株」について語っています。どちらも王は誤った決断をした時です。しかしダビデ家についての約束は、いずれの場合も預言者によって確かにされています。希望はどこでも、そこに存在する現実を背景として語られています。しかしその現実は、希望なきものです。この預言は、そのような時代を生きている者に向けて語られています。

第一の名は、判断力と偉大な計画を立ててそれを成就する知恵を指して言われています。第二の名は、通常、主の道具として敵を討ち、勝利することと解されます。 第三の名は、王は父親のようにその民をいつまでも育む存在となることを示しています。そして、第四の名は、国の内外において争いや抑圧の恐れがなく、繁栄と幸福な生活をもたらすことが示されています。

しかし、イザヤの時代も、その後の旧約時代を通じても、ユダに実在した王のうち、誰一人としてこれらの名を現実にした王は出現しませんでした。

しかし、この新しい王は、ダビデの王座についてその支配も平和も終わりなく、正義と公平によって、その王国を支配し続けると言われています。この王は、「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」(2:4)平和を実現し、「地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くす」(9:4)平和を実現します。またその支配は、「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。」(11:4-5)正義と公平に満ちています。その平和は、「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」(11:6)という、自然界をも変える驚くべき形で実現するといわれています。諸国の民がそれを求めて集う程、素晴らしい形で実現することが明らかにされています(11:6-10)。

イザヤはこの歌を終えるに当たって、それはただ人間の願望の夢を述べているにすぎないという反論に対して、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(9章6節)と答えています。

この預言の持つ意味は何でありましょう。この預言の究極の成就は、イザヤも知りません。それなら、当時の人々にとって何の慰めになるのか、という疑問が残ります。「ひとりのみどりご」は、インマヌエルです。神は神を信じる者たちがただ神にのみ仕えることを要求するのと同様に、周辺諸民族の前でご自身の栄光を現すために、神はご自分を信じる者たちを見捨てられません。神がその業をイスラエルに対して始めた以上、神はその神聖と栄光とその無比なる存在に相応しいように、その業を成し遂げられるお方であることが、この預言において語られています。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」と言ったイザヤ自身は、自分の生きているあいだに、この預言がたとえそれが成就しなくても、事柄は神の熱意から出ているかぎり、必ず起こると信じて、神の将来に希望を持って待ち望みました。

イザヤの預言は、イエス・キリストにおいてその成就をみることによって、その真実は光を放っています。「異邦人のガリラヤ」が慰めを受けたように、希望なき圧迫と苦しみの中にあって、真の主を信じ、希望を失わずに生きるものに、この預言者の言葉は大きな慰めを与える言葉としてこだましています。

神はこのようにイエス・キリストにおいて私たちを慰めてくださるお方です。神の審判の彼方に信ずるものに与えられる恵みの素晴らしさ、その実現する平和のすばらしさを、この御言葉からしっかりと読み取ることが私たちに求められています。「ひとりのみどりご」は、絶えることのない永遠の平和を実現し、正義と恵みの業によって今も、そして、とこしえに支配しておられます。しかしその平和は、このひとりのみどりごが、神に信頼し十字架の死に至るまで神に明け渡して己に死に神に生きる者となられたその姿に表されています。その神への信頼と明渡しの中で生きる人間相互と、自然の中に本当の共生の喜びが生れます。それを人に期待することは絶望に近いことかもしれませんが、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」という約束にその実現の確かさを見ることができますし、それを、信仰をもって待ち望むことがわたしたちに求められています。「信じなければ、あなたは確かにされない」(7章9節)との御言葉を覚えそこに立ち続けるのです。

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