サムエル記講解

44.サムエル記下13:1-39『アムノンとアブサロム』

12章9-12節にあるウリヤとその妻バト・シェバにしたダビデの罪を叱責するナタン言葉は、後の編集者による付加である可能性があることを指摘しましたが、ダビデの罪に報いる神の現実を本来のサムエル記の著者が見逃すはずはありません。むしろサムエル記の著者は、ダビデ王朝のその後の歴史、特に王位継承史にまつわるその歴史を物語ることにより、その歴史において表された神の報いを見ることにより、その罪のもたらす悲劇的結末を教訓として覚えるよう、読者に促しているように思えます。

人の道を踏み外してしまったダビデに表わされた神の報いはあまりにも大きな代償を伴うものでありました。しかし、12章には、ダビデの罪を叱責するナタンの言葉とともに、後の王位継承者となるソロモンの誕生のニュースが希望として語られています。この主に愛された未来の王、約束の担い手ソロモンよりも優先的な王位継承権を持つ年長の息子たちの歴史をサムエル記の記者は物語り、ダビデ王家が危機に直面しながらも、神の愛による約束が実現していく様を描写していきます。その危機の歴史の最初に取り上げられるのは、皇太子アムノンの場合です。

アムノンは、父ダビデの性的欲望に支配されて犯す罪を受け継ぎ、王位継承の歴史に自ら悲劇的結末をもたらす原因を作ってしまいます。アムノンの母はアヒノアムでした。彼の弟アブサロムの母はマアカで、アブサロムには同じ母から生まれた妹タマルがいました。彼女は美しい未婚の処女でありました。アムノンはこの異母妹タマルに恋心を抱いて、病気になりそうなくらい彼女のことを思い続けていました。2節に「手出しをすることは思いもよらなかった」とありますが、彼の恋する女性が腹違いの妹であることがそれを不可能にしていた最大の理由ではありません。創世記20章12節にアブラハムが異母妹のサラを妻としている例があるように、この種の近親結婚はイスラエルにおいても、イスラエル以外の世界においても広く行われていました。後に律法で禁じられるようになりますが(レビ記18:9,11、20:17、申命記27:22)、この時代にはまだ彼が筋を通して彼女との正式の結婚を願い出れば、その道は不可能であったわけではありません。

しかし、アムノンは、そうした人の道を踏んで、彼女を妻として迎え入れようというのではなく、ただ彼女の美しさに恋焦がれて、何とか思いをとげたいという感情だけを抱いていました。アムノンがタマルのことを思うあまり、顔がやつれて行く様は、彼の親しい友人でダビデの兄弟シムアの息子であるヨナダブに感づかれます。彼は大変賢い男で、アムノンに病気を装って、心配して父ダビデが見舞いに来たなら、妹のタマルをよこして、自分の目の前で彼女に食事を作ってもらえるようお願いするよう助言しました。

その思いをどのように遂げたらよいか知恵がわかなかったアムノンは、これはよい考えだと思い、その助言通り、床につき病気を装いました。ヨナダブのいう通り、心配した王ダビデが見舞いに来ました。その時、アムノンはヨナダブの助言通り、妹のタマルをよこし、彼女に菓子を目の前で作らせ、彼女の手からその菓子を食べたいという願いダビデに語りました。ダビデは父親らしい愛情を持ってこの願いを聞き入れ、タマルをアムノンの家に行かせます。

タマルは父の言い付けに従ってやってきて、アムノンの寝ている部屋のとなりにある調理部屋で料理をしていました。アムノンはタマルが料理する姿を隣の部屋のドア越しから眺めていました。いよいよ料理が運ばれそれを食べる段になると、タマルと二人きりになるために、アムノンは側にいた付き人みんなを外に出て行かせ、妹のタマルに自分の寝室に作った料理を持ってくるように言いました。

タマルはアムノンの下心を知りませんので、何の疑いも持たず、いわれるままにその料理をアムノンの寝室に運び、兄の望み通り自分の手で食べ物を与えようとしました。アムノンは食べ物を自分の口に運ぼうと差し出した妹の手を取り、「妹よ、おいで。わたしと寝てくれ。」と言って、ベッドの中にタマルを引き入れようとしました。

タマルは美しいだけでなく、聡明な女性でしたから、その結末がどのような結果をもたらすかを自覚し、必死の思いで兄の愚行を止めさせようと抵抗しました。そして、兄の自分への思いが真実であるなら、王に先ずそのことを話すように語ります。そうするなら王はそのことを拒まず、わたしをあなたに与えるだろうと語ります。しかし、アムノンは彼女の知恵ある言葉に耳を傾けず、力ずくで彼女を辱めてしまいます。

ところが思いを遂げたアムノンは、この後激しい嫌悪を覚えることになります。この彼の突然の心の変化を、皇太子としてわがまま放題に育った享楽的人間の特色であると説明する注解者がいます。あるいは、タマルが怒りに満ちた抵抗を最後まで試みた結果であると説明する注解者もいます。しかし、病的な性的欲求の興奮が冷めた後、憎悪の感情へ急激に転換するのは、このような性的異常感情者の一つの特徴であることを、サムエル記の著者は淡々とした筆致でその事実を冷静に報告していると見るべきでしょう。「その憎しみは、彼女を愛したその愛よりも激しかった」という言葉が、その行動の異常さの特徴を物語っています。

信実の愛は、相手の心を尊重します。女も男もそのことに変わりありません。アムノンは一方的に愛し、一方的に憎悪し、彼女を奪い取り、追い出し、彼女の人生に何の責任も取ろうとしません。

タマルは、この身勝手なアムノンの行動に対して、その辱めの悲しみ屈辱を必死にこらえて、その事実を冷静に受け止め、「わたしを追い出すのは、今なさったことよりも大きな悪です」と言って、アムノンに、自ら起こした行為に対する責任を取るようもとめました。このタマルの気丈でかつ聡明な判断は、ユダによって子をはらんだ時のあのタマルを彷彿させるものがあります(創世記38章)。

しかし、このタマルの知恵ある言葉を、ここでもアムノンは聞き入れず、従者を呼び寄せ、力ずくで追い出させ、彼女が再び入れないよう錠を下ろさせました。厄介者の娼婦が路上に追い出されるように、タマルは家の外に追い出されました。このような仕打ちを受けたタマルは、これらすべてが意味することが何であるかを知っていました。今や彼女は孤独の内に一生を送らねばならないことを悟りました。タマルは未婚の王女が着る飾りのついた特別仕立ての上着を着ていました。王女の特権を表す美しい上着は、ふさわしい男性に嫁ぐ日まで身につける王女のしるしとしでしたが、彼女の身の起こったことをすべて知り、喜んで彼女をその身なりで妻に迎え入れる男性はもういません。それゆえ彼女は、追い出された後、まとっていたその上着を引き裂き、頭を手に当て嘆きの叫びを上げながらそこを去って行きました。

彼女が帰れる場所は兄の家だけでした。この変わり果てた姿をした妹の姿を見た兄アブサロムは、「兄アムノンがお前と一緒だったのか。妹よ、今は何も言うな。彼はお前の兄だ。このことを心にかけてはいけない。」と言って、彼女と共に激しい憎悪を示しますが、それによって何かの行動を起こすということはありません。彼はその憎悪を今は自分の腹の中にしまいこみ、復讐の時が来るのを待ちます。ダビデも事実を知り、やはり激しい怒りを表しますが、何の行動もとろうとはしません。このような兄や父の振る舞いを見て、タマルは絶望するばかりです。彼女は絶望のなかで兄の所に身を寄せて余生を過ごすしかなかったのです。

しかし、アブサロムはこの兄の蛮行を不問に付す気はありません。そのチャンスを伺っていました。2年間という歳月が経ち、とうとうそのチャンスが訪れます。2年間、彼はその日が来るのを着々と準備したというべきかもしれません。アブサロムは、沈着冷静に熟慮しその日を選びました。彼はエルサレムの北に羊を飼う土地を持ち、家も持っていました。その所有する羊の毛を刈る祝いの日に王子全員を招待し、王ダビデにも家臣と共に来るよう招待しました。ダビデはこの招待の意味するものが何かすべてを察知していたわけではないと思いますが、その危険なことをいくらかは警戒していたのでしょう。彼の申し出を丁重に断り、ただ祝福だけを与えました。しかし、2年間この日の来るのを待ち、準備したアブサロムは、「それなら、兄アムノンをわたしたちと共に行かせてください。」と王に許可を求めました。このような行事の場合に皇太子が出席をするのに、王の許可が不可欠であったからです。他の王子たちの出席に関しは必ずしも王の許可は必要とされませんでした。ダビデは、アムノンの出席に執拗にこだわるアブサロムの態度に不審を抱き、「なぜアムノンを同行させるのか」と尋ねています。サムエル記の記者はその質問にアブサロムがどのように答えたかは何も記さず、ただダビデが重ねて懇願するアブサロムに折れて、アムノンと王子全員を同行させたとだけ記しています。

アブサロムは妹の陵辱に対する復讐心だけから2年間準備し、その行動を取ろうとしていたと単純にいうことはできません。そこには彼の冷静な権勢欲から出た計算も働いていた可能性もあります。彼は既に相当な財産と軍事的な力と実力を備えるまでになっていました。彼はのちにダビデの王位をねらう人物となります。彼は王の後継者となる第一の優先順位を持つアムノンを、妹の陵辱に対する復讐という大義の下で、殺害する絶好のチャンスを手にいれたということもできます。アブサロムは王の同意を得ることに成功し、刈り入れの祝宴の酒がふるまわれ、とりわけ多くアムノンに飲ませ酩酊させた上で、従者に命じてアムノンを殺害することに成功します。他の王子たちは、この突然の皇太子暗殺の出来事に驚き、自分たちも殺されることになるのではないかと恐怖を感じ、ラバにのって急いで皆逃げて行きました。

このアブサロム暗殺の知らせは、王子たちがエルサレムに帰りつくまでに、誰かによって王子たち全員が暗殺されたという噂となって、ダビデに伝えられました。この知らせを聞いたダビデと家臣たちは衣を裂き地面に倒れ伏して、その悲しみを表しました。

しかし、そこに冷静にその知らせが事実と異なると告げる者が一人いました。それは、アムノンにタマルを手にいれる方法を助言したあのヨナダブです。彼はまるで預言者のように、アブサロムは妹タマルの辱めの復讐をするため、アムノンだけを殺害したのだと王に告げました。このヨナダブの推測、判断は、正しいものでした。ヨナダブのいうようにアムノン以外の王子たち全員は無事帰ってきました。だからといって、ダビデは喜んだのではありません。ダビデは王位継承者となるべき第一位の順位を持つアムノンを失い、そのアムノンを暗殺したアブサロムは、また復讐されるのを恐れ、逃亡していました。つまりダビデは、第一の王位継承者アムノンを失っただけでなく、第二の継承権のあるアブサロムも同時に失うことになったからです。ダビデはアムノンの死を悼み続けます。そして、やがてその死を諦めることができるようになると、今度はアブサロムを求めるようになります。この二人の後継者を失うことに対するする王の悲しみ恐れが王朝の危機を物語っています。

13章の物語の中心は、ダビデの人の道を踏み外す罪に対する主なる神の報いが、その子らの罪を通してあらわされたということです。ダビデの王位継承の第一と第二の権利を有する者の二人が、失われることはダビデ王朝の歴史の大きな危機であることを物語っています。しかし、この危機は、驚くような暗く悲しい出来事によって引き起こされたとしても、それは、ダビデの罪に対する一つの神の報いでしかなく、その報いはどんなに悲しくまた長く続くものであっても、決して悲劇的に終わるものではありません。この悲しい歴史の中で、神に愛された者ソロモンの成長が確実に見られることを、地下水の水脈のように、この物語の背後に隠れて、確実に流れていることを、見落とさないことが大切です。この事実を見落とすと、その恥ずべき、悲しい歴史の連続の中で、人は希望をもって生きて行くことができなくなります。

詩篇46:5に「大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。」と歌われています。この詩篇は、地が姿を返るような危機を経験して、都の土台を揺るがすような恐るべき体験をしても、都に流れる大河が、神の都に希望を与えると歌っています。エルサレムの都に川は一本も流れていないのに、この詩人はこのように歌っています。それは目に見えない地下に流れる水脈を指して歌っているのです。目に見えない神の言葉、神の約束に目を注ぐ時、その希望なき状況にも希望があることを、この詩篇は歌っています。神はその中にも共にいますのです。神はダビデ王の罪を、その子らの歴史の中で報いますが、神はそれでもその歴史を見捨てたものとして扱われているのではないのです。神の愛されたソロモン王がこの困難な歴史の中で育っている。神に愛された歴史の残りの部分が隠れてはいるけれどもそこに存在することを見出す。そこに信仰の本当の力があります。

旧約聖書講解