エレミヤ書講解

19.エレミヤ書11章18-23節 『エレミヤの訴え』

エレミヤ書11章最後の部分には、アナトトの人々による自身に対する殺害計画を、主によって知らされたエレミヤの訴えと、主の威嚇の言葉が記されています。アナトトは、エレミヤの故郷です。アナトトの人々(エレミヤの親族)が、なぜエレミヤを殺害する陰謀を企てるようになったのか。その原因は、彼の祭儀批判説教と関係していたと思われます。エレミヤの説教は26章に見られるように、祭司、預言者、高官をはじめ民のすべてに人から、「都に敵対する預言」で「死に当たる」罪として、敵対と攻撃にあいました。また、エレミヤはアナトトの祭司のヒルキヤの子として祭司の家系に属していましたから、エレミヤの祭儀批判説教は、とりわけ彼の父の祭司家系の内部において、自分たちの家系に不名誉をもたらし、その伝統を傷つけるものとして、はげしい憎悪を買うことになりました。この陰謀のなされた時期は、おそらくエレミヤの活動の初期ではなく、ヨヤキム王の時代であると思われます。

この本文は、もともと18節の後に12章6節が続き、20節の後に12章2節の後半の言葉が続いていたと思われます。現在のような本文になったのは、おそらく写本を書き移すときに、書写する人がこれらの部分を見落として欄外に記されたものを、後に更に欄外から誤って12章の現在の箇所に入れられてしまったのではないかという推測が多くの学者によってなされています。その考えを支持するかどうかという判断は簡単にできませんが、確かに、文脈の流れも、文章のおさまりも、その方が自然な感じがします。

さて、18-20節までは、エレミヤの訴えが記されていますが、ここで述べられる言葉は、嘆きと感謝の詩篇の文体を備えた信仰告白と祈りという形態を取っています。21-23節は、それに対する主の威嚇の言葉です。

エレミヤ書においては、エレミヤに対する幾多の個人的な攻撃や敵対の言葉が存在したことが記されていますが、この攻撃は、エレミヤの生涯における幾多の痛ましい失望落胆のひとこまです。主がエレミヤに知らせたことは、エレミヤが気付かぬうちに、その家族の間にエレミヤに対する殺害の計画の謀議がなされているという事実でありました。

19節には、「小羊が屠り場に引かれていくように」というイザヤ書53章7節に共通するしもべ像が示されています。屠り場に家畜を引いていく者の後に、何の疑いもなく無邪気についていく人なつっこい小羊という、同情を誘うこの譬えによって、信頼するがゆえに欺かれる、かくも痛ましい一個の魂の痛ましい姿が描き出されています。この魂の持ち主は、親しく語りかける親族の言葉に信頼を寄せていました。そのうわべだけの言葉の裏に隠されている悪魔のような裏切りについては、神自身が注意を喚起させるまで、エレミヤには想像することさえできなかったのです。しかし、神がどのような仕方でこれを知らせたのか、エレミヤ自身は黙して語りません。

あなたの兄弟や父の家の人々
彼らでさえあなたを欺き
彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。
彼らを信じるな
彼らが好意を示して話しかけても。(エレミヤ書12章6節)

エレミヤは、このように叩きのめすような事態を、不思議な神の口添えと導きによって知り、それを人々と神の前に、「主が知らせてくださったので わたしは知った。彼らが何をしているのか見せてくださった。」(18節)と告白しています。19節に「木をその実りの盛りに滅ぼし」と告白しているように、彼は人生のもっとも盛んな時期に、実の兄弟の手で殺され、人間的な交わりから無理やり断たれる、ということを聞かされて痛く動揺させられたのです。

もし、わたしたちがこのような経験をさせられると、茫然として言葉も出ないほど黙り込んで悲しみに堪えるか、取り乱してわめきちらすかして、その事態の中で希望を見出すことに、大抵の場合失敗してしまうことでしょう。

しかし、エレミヤはそのような事実を知って痛く動揺しましたが、召命のときに神が彼に約束した、次の御言葉によってこの事態を耐えました。

彼らはあなたに戦いを挑むが
勝つことはできない。
わたしがあなたと共にいて、救い出す(エレミヤ書1章19節)

この主の言葉こそがエレミヤの最後の拠り所です。家族を含むすべての人々がたとえ彼に対して不真実であったとしても、神は彼に対して最後まで真実でいたもう、ということをエレミヤは召命のときの約束の言葉から確信したのです。エレミヤをその絶望的な事態から救ったのは、主の約束の言葉であり、その言葉を信じる彼の信仰です。

それ故、エレミヤは慌てず、自分に起こった事態を、「人のはらわたと心を究め、正義をもって裁かれる主」(20節)に委ねきることができました。人が事態を悲観して見るのは、主に委ねきることができないからです。しかし、「人のはらわたと心を究め、正義をもって裁かれる主」を知り、信じる者は、主にすべてを委ねきることができます。信仰とは、どのような事態にあっても、主に委ねきって生きることを意味します。この信仰は、主の約束のことばに聞き、その約束を絶えず想起する中で形成されてくるものです。

ここでエレミヤは報復を祈っています。しかし、この報復の祈りは彼の個人的な感情に支配された報復欲を神が満たしてくれるようにという願望でありません。エレミヤが見たいと願ったのは、あくまでも、自分がなす報復ではなく、神の報復です。

エレミヤの祈りには、預言者と預言者への委託の背後に立つ神の尊厳と力とに対する信仰がありました。神の使者である預言者に対する暗殺の陰謀は、実に神ご自身に敵対する、神に関わる事柄です。そうであるなら、この祈りに主が応えられないはずがあり得ないというのがエレミヤの確信です。

エレミヤの祈りに応え、主の報復を述べる理由が21節に記されていますが、それは、「主の名によって預言するな 我々の手にかかって死にたくなければ」というエレミヤに対することばの故であることが明らかにされていることは大変重要な意味をもっています。

預言者と預言者への委託の背後に立つ神の尊厳と力を無視し、神の使者である預言者に対する暗殺の陰謀を企てることは、まことに激しい主の報復を自ら避けえないものにする重大な罪であるからです。

エレミヤは、世俗の裁判に訴えることをせず、すべてを「人のはらわたと心を究め、正義をもって裁かれる主」に委ねました。それは、エレミヤが、このような事態の中では、人間はその最も深い内奥にある事柄に対してはわずかしか見通すことができず、正しく判断できないものであるということをはっきり認識していたからです。

それゆえ、万軍の主はこう言われる。
「見よ、わたしは彼らに罰を下す。
若者らは剣の餌食となり
息子、娘らは飢えて死ぬ。
ひとりも生き残る者はない。
わたしはアナトトの人々に災いをくだす。
それは報復の年だ。」

22-23節の威嚇のことばは、直接、ヤハウェがエレミヤの願いを聞き届けたしるしとして記されています。

人々は、預言者に対する殺害を企てることによって、預言者を通して神が語るのを阻止しようとしますが、今や、神の審判のことばが彼らに語られます。この審判がいつ、どこで起こるのか、それは、預言者にも隠されています。本質的で大切なことは、神はこの威嚇をもって、神が預言者の側に立っていることを示されたということです。後に預言者エレミヤに起こるであろう一層重大なることより一層困難なことの働きのために、神は、ここにおいて預言者の命を失わせず、保たれたのです。ただ生かされて守られていることに意義があるのではなく、神の働きのために神に生かされていることにこそ、生きることの本当の意義があるということを、ここから見出すことが大切です。

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