イザヤ書講解

39.イザヤ書43章8-15節『わたしこそ主』

イザヤ書43章8節-15節は、41章1-5節、41章21-29節同様法廷弁論です。この法廷弁論において審理の対象になっているのは神性の問題です。この弁論において、神は、「わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを」(10節)論証しています。その論証のための証人として、主は、イスラエルと、諸国民とその諸国民の神々が立つことを求めています。しかし、諸国民とその神々にはまったく発言を許されていません。また、ヤハウエ側の証人として立てられたイスラエルは、「目があっても、見えぬ民」「耳があっても、聞こえぬ民」(8節)と相変わらず呼ばれています。そのような者がどうして証人としてその役割を果たせるのか、はなはだ心もとない感じがいたしますが、「わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え/あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた」(12節)ゆえに証人として立てられたといわれています。42章18節-21節において、イスラエルは、主なるヤハウエから何も見せられず、何も聞かされなかったのではなく、多くの主の御業を目撃させられ、多くの主の言葉を聞いたにもかかわらず、「多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない」(42章20節)、自ら目を閉ざし、耳を塞ぐ歩みをした結果、「目があっても、見えぬ民」「耳があっても、聞こえぬ民」と呼ばれています。

それゆえ、ここで証人として立つよう呼びかけられているイスラエルは、神と共にある長い歴史の道程で、自分たちの神を認識する機会を十分与えられているものとして、証言する資格ある者とみなされています。その神と共にある歴史の中で、イスラエルの行動が明らかにしたのは、彼らが主の業を見もせず、主の言葉に聞きもしなかった、という事実であります。しかし、それでも神は、彼らを証人として用いることができます。

他方、9節において、諸国民とその神々が証人として立てられています。今、イスラエルは祖国を失ったものとして、異国の地で、自分たちの運命を支配しているのは、「主なるヤハウエか、それとも神々か」という根本的な問いの前に立たされています。

この法廷弁論において、神が神であるということは、理念や観念として論理的に証明できる問題として論じられることはありません。それは十戒においても同じです。イスラエルはカナンの地においても、バビロンの地においても、「神々」の世界に囲まれて生きていました。だから、その神がたとえ偶像で、無力な神であるにしても、それを神として崇め、その支配の下に生きている異邦の民とのかかわりの中で、主なるヤハウエこそが神であると認識し、信じ、その信仰を告白して生きることがイスラエルに求められていました。その信仰は、具体的には、来るべきことを告げる神への応答という形で問われていました。語ることの真実は、その語られたことが現実に起こるということにおいてのみ明らかにされることを、主は明らかにされます。だから、ここで諸国の神々へ向けられる問いは、9節後半においてなされています。

神が歴史を貫いて民を一つの道に導くならば、その神の言葉が、その道の方向と目的地を示し、民がその示された道を確かな足取りで歩むことができるようになるはずです。そうすれば、その神の神たることが証明されたことになります。だから、「初めからのことを聞かせる者があろうか」との問いも、言葉と、その語られたことの関連が述べられています。つまり、神々に対して、過去にそのような関連があったと証明することができるか、と問うているのではあります。もし彼らにそのことが証明できるならば、その証明には屈服しなければならないことになります。この審理で問題にされているのは、両方の側が承認せざるを得ない客観的な事実であります。

したがって、そのような証明がなされれば、相手側は、「それは本当だ」と認めなければならない、というのであります。ここではその宗教の正当性や主張の真実の判定を下すのは、その霊的、倫理的、宗教的価値でも、その業績や高い文化的地位でもなく、ただ歴史的一貫性だけと考えられています。そして、政治的崩壊という深淵を跳び越えていく信仰だけが、その判定を下すことができるのではあります。だから、この判決には、証人として立てられたイスラエルが、信仰において神が主なるヤハウエであることを公言する必要があります。

それゆえ、「目があっても、見えぬ民」「耳があっても、聞こえぬ民」と呼ばれるイスラエルが、10節において次のように呼びかけられて証人として法廷に呼び出されているのであります。

神は、目の見えない者、耳の聞こえない者を、再び証人とすることができます。しかし、神は彼らを目が見えず耳が聞こえない状態から呼び覚まし、再びご自分を主と「知り」「信じ」「理解する」者ならせることができます。また、現実に彼らの信仰がそのようにならなければ、彼らを証人とすることができません。この三つの動詞は、一つの同じ出来事を言い表しています。注目すべきは、「信じる」という動詞が、「知る」「理解する」という二つの動詞に囲まれていることです。ここで問題にされているのは、「信仰に導く認識」でも「信仰に基づく認識」でもありません。10節後半には、訳されていない、「わたしがそれである」という文がヘブライ語聖書にはあります。この文が当時のイスラエル人にとって何を意味していたかは、まさに後に続く神の言葉の中で明らかにされています。今や、イスラエルにとって神は、破れた過去から未来を造り出すことのできる方として啓示されています。神がそのような方であること、その真の神のみがそれをなしうる方であることを、彼らは認め、信じ、理解すべきなのであります。

ですからここで言われているのは、ただ出会いの中で生じる、全く人格的な認識であります。このような認識は、それ自身のうちに信仰をも含んでいます。それは信じる認識、または認識する信仰であるということができます。言い換えれば、イスラエルは、神が神であることを信仰において認識するならば、神の証人となることができるということであります。イスラエルが証言すべきことは、彼らが真の神に出会った、ということ以外の何ものでもないからであります。

わたしこそ主、わたしの前に神は造られず
わたしの後にも存在しないことを。

10節後半において、神は改めて発言しておられます。「わたしの前に神は造られず」という日本語訳は、原文の意味をわかりにくくしています。ここの原文の意味は、「わたしの前に形造られた神は存在しない」であります。ここで第二イザヤは、明らかに多神論の世界の中でこの言葉を使っています。まさに多神的な異教世界では、「神々が造られた」現実が存在します。十戒の、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という言葉は、異教の「神々」が崇められていることを前提した上で、そうした神々の無力と、本来存在しないこととを、ヤハウエのみが唯一の神であるという視点からなされているのであります。だから、神は「わたしの前にも・・・わたしの後にも存在しない」ということは、まさに、かつてイスラエルも、彼らが彼らの神を持ち、他の諸国民が他の神々を持っているということを自然に受け入れていたという事実を念頭に入れる必要があります。しかし、そうであるからこそ、神の唯一性こそが、神が神であることの証明として根本的かつ不可欠な問題として語られているのであります。そして、このようなことを語った預言者は第二イザヤの前にまったく存在しません。神の唯一性は、まさに異教の神々の存在を前提し、それを否定していく中で、イスラエルの信仰が確立していくことによって明らかにされていく問題として論じられているのであります。

11節の「わたし、わたしが主(ヤハウエ)である」は、10節後半の日本語訳に表れていない「わたしがそれである」に対応しています。ヤハウエという名の中には、二つの面で神とイスラエルの歴史が含まれています。第一に、その名において統一性をもつ神の言葉と行為があらわされています。第二に、この名が、困窮の深みからこの名を懇願しつつ呼ぶこと、この名を歓声の声を上げてほめたたえることにおいて、イスラエルが頼りにしたもの、また頼りにしているものがあらわされているのであります。この第二の意味では、イスラエルの現実の中で神が唯一の救い主であること実証されたということが想起されています。そして、将来誰かがイスラエルに助けを与えることができるとすれば、それはヤハウエのみであることを明らかにしているのであります。13節はそのことを強く述べています。それは、41章4節で、「この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは、主なるわたし。初めから代々の人を呼び出すもの/初めであり、後の代と共にいるもの。」と語られた方のわざとして起こることが、ここでも述べられているのであります。

主の民にとって、神の永遠性は、神が太古から神であり、今も同じ方としてあることを意味し、将来においてもそうであると信じることであります。その真実性は、神の語ることと行動することの一貫性の中にのみ存在します。主の言葉はイスラエルに向かって発せられ、これらの言葉には信頼が置かれていました。約束は、神の名の啓示で、「わたしは主である」と結びついていました。そして神の言葉の連鎖は、最初の告知から、今、第二イザヤを通して残りの者たちに発せられる言葉、つまり、イスラエルに、その未来を確信させることのできる言葉にいたるまで、保たれてきたのであります。このことは、「あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた」という言葉に要約されています。

神は、これらの言葉において今歴史を支配しているのは、彼らを現実に支配している政治権力ではなく、唯一の神であるわたしである、ということを語り、どのような政治権力といえども、イスラエルと主なる神との絆を断ち切ることができないことを明らかにされています。第二イザヤは、「あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神、主」として14節で指し示し、その歴史に介入し苦難から解放されることを告げているのであります。この預言は、キュロスによるバビロン征服を意味していることは明らかです。

この希望の約束を語って、最後に神の四つの称号が示されて、この法廷弁論は閉じられています。神は、イスラエルを創造した最初の日から、現在の苦難の中においても、将来の解放のときも、変わりなく唯一の神としてイスラエルと共に歩み、彼らを贖う神として顕されることを明らかにされています。イスラエルは、この主なる神を知り、信じ、理解することによって、神が唯一であることの証人となれることを覚えるべきであり、わたしたちもまたそのように神を知り、信じ、理解するものとして、神の唯一であることを世に証をすることができるのであります。

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