ヨシュア記講解

15.ヨシュア記17章14節―18節『そこが森であっても』

前回、カレブの信仰について14章から学びましたが、ヨシュア記は、その後15章でユダ族に対する土地分配を記し、16-17章でヨセフ族に対する土地分配を記しています。

カレブはユダ族の代表として、ヨシュアはエフライム族の代表として、それぞれカナンの地を探りました。ですから、ここではヨシュアにとっていわば身内のヨセフ族に土地分配していることになります。ヨセフ族に属するマナセとエフライムは、彼らが主張している通り、確かに一つの籤(くじ)でパレスチナ北部の地が割り当てられました。

割り当てられた土地は決して小さくはありませんでした。マナセに割り当てられた土地は、肥沃なエスドラエドン平原も含まれていました。エフライムは中央パレスチナの重要な場所があてがわれました。その大部分は確かに山地でした。そして、13節で、「イスラエルの人々は強くなってからも、カナン人を強制労働に従事させただけで、徹底的に追い出すことはできなかった」と言われていますので、分配された土地の大部分はまだ完全に征服されていなかったので、この分配において彼らが実際に受け取った土地は、山地で狭かったと言えます。

しかし、ヨセフ族が不平にした本音は、土地の狭さよりも、そこに住むカナン人の強いこと、特に、彼らは自分たちにはない「鉄の戦車」を持っていたので、自分たちが簡単に征服されていまい、滅ぼされてしまうのではないか、という恐怖にありました。だから、もっと安全な良い土地を欲しいということでありました。

かつて彼らはヨシュアとともにメロムの水辺のほとりで、ハツォルの王ヤビンが率いるその同盟軍の戦車と戦って勝利した経験があります(11:5-7)。なのに、エフライムとマナセは、この民は強いと言って、ヨシュアに不平を言っているのです。しかし、ヨセフ族は、イスラエルの民の中で決して小さな部族ではありませんでした。17節でヨシュアが「確かにあなたは数も多く、力も強い民となった」、といっていますように、その与えられている力で、神に信頼して戦えば、いくらでも切り開いて、自分の土地にできるところを与えられていました。カレブは85歳になっても信仰の目で、神の可能性に賭けて、神の戦いに参加して神の栄光のために戦おうとしたのに対して、ここで示している彼らの態度は、神により頼まない不信仰なものです。

割り当てられた地を見た彼らの目には、そこは、開墾するのに困難な森が広がり、肥沃なイズレエル平野には、鉄の戦車を持った強大なカナン人がいるという人間的不可能性しか映りませんでした。信仰の事柄を信仰の目で見ることに失敗する時、すべてが不可能に思えるようになります。

カナンは神の国の型です。イエス・キリストの救いの恵みは、この地上で与えられます。究極的には、イエス・キリストの救いの恵みは地上的ではありませんが、地上における信仰の戦いを通して与えられる栄光の冠が、そのかなたに終末的救いの完成として与えられるのです。神はわたしたちの前に、この地上においてあらゆる困難と不可能と思えるような状況を取り去られず、わたしたちの信仰を問われるのです。しかし、神はイスラエルに先立って戦われ、約束したものを与えるとの約束を成就されるのです。

神の御前に、そのようにいつも信仰が問われます。ヨシュアは、「確かにあなたは数も多く、力も強い民となった。あなたの割り当ては、ただ一つのくじに限られてはならない。山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう」(17,18節)、と神の導きを信じて戦いきるように促し励ましています。そうすれば、「きっと追い出すことができよう」という約束が実現することを明らかにするのです。

信仰は妄想とは違います。正しい信仰は現実を正しく見て、現実的な戦いをします。カナン人は「強いかもしれないが」、神が味方してくれるなら畏れることはないのです。大切なのは、「神の武具を身に着け」(エフェソ6:11)て、しっかりと戦うことです。

わたしたちに立ち向かう敵が、強大であればある程、信仰を持って戦うことが大切です。その様に戦うなら、その戦いは神の栄光を必ず現わすものとなり、必ず勝利に導かれるでしょう。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8:31)とパウロはのべています。わたしたちの信仰の戦いは、神が味方であるので誰も勝つことができないのです。

旧約聖書講解