イザヤ書講解

30.イザヤ書40章6-11節『神の言葉はとこしえに』

イザヤ書40章6-8節は、第二イザヤの召命体験を語る言葉が記されている箇所です。第二イザヤは、捕囚の民に主による解放の喜びを語る預言者として召し出されました。その解放の喜びを告げる言葉が、40章1-5節に記されています。しかし、この解放の福音を聞く捕囚の民は、それを素直に喜ぶ人たちではありませんでした。捕囚の期間の長さ、未来が見えない苦しみの期間の長さは、人の心を暗くし、希望を持って未来を見る目さえ奪って行きました。希望を完全に失った人間の心は固く閉ざし、その表情は喜びなく無反応になっています。

第二イザヤは、そのように固く心を閉ざし、未来に対して希望をもってなくなった人々に向って、主の呼びかけの言葉を語るように召された預言者でありました。しかし、彼は、かたくなに心を閉ざす捕囚の民とは異なり、ひとり孤高を保ち、世界と歴史に対する洞察を持ち、揺るがざる確固とした信仰と希望とを持ち続ける偉丈夫(いじょうふ)な人間ではなかったのです。彼自身は、宣べ伝えることばも、方策も、何も持たぬ無力な人間でした。野の草のように砂漠の熱風の一息で枯れてしまうことを知っている無力な人間でしかなかったのです。しかし、ここにいるのは、現在の荒野の状態が神の激しい審判の息吹の結果であることを痛いほど身に滲みて知っている人間でもありました。

同じ弱さを知る一人の人間でしかないこの預言者に、「呼びかけよ」(6節)という主の声が届きましたが、彼は「何と呼びかけたらよいのか」と主に反問しています。野の草のように無力な人間でしかない者が、同じ無力な人間に向かって何を語れというのだろうか。激しい神の審きの現実を生きている者の嘆きを知っているだけに、預言者には、大きなためらいがあったのです。

パレスチナでは、春になるといっぺんに花が芽吹くといわれます。しかし、やがて夏になると熱風が吹きつけ、その上に熱砂をもたらし、一瞬のうちに美しく咲き誇ったアネモネなどの花を枯らすといわれます。

永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。(7節)

という言葉は、そのようなパレスチナの厳しい気候風土の中で語られた人間についての預言者の深い洞察からでたものです。一瞬にして枯れ果てる野の草のようにはかない「肉なる者」としての人間にどう呼びかけたらよいか、彼には何の慰めの言葉も思いつかないのです。

しかも、彼は、「草は枯れ、花はしぼむ。」という現実を、「主の風が吹き付けた」結果として認識していましたので、彼らの心の荒廃、その無力の究極の原因は、神にあることを明らかにします。彼は、この神にある現実が少しも変わらない以上、預言者として語れといっても、自分自身には何の慰めも語りないから、「何と呼びかけたらよいのか」判らないと、と主に抗議しているのであります。

それゆえ、神の新たな啓示は、そのような無力を知った者を立ち上がらせる神にある新しい現実が明らかにされる必要がありました。神が切り開かれる新しい現実が、次の8節の言葉においてあらわされています。

草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

神は、罪を犯し続けるご自分の民イスラエルに向かって「わたしの民でない」(ホセヤ1章9節)といわれましたが、今や再びこの民に向かって「わたしの民」(イザヤ書40章1節(といって呼びかけておられます。確かに「草は枯れ、花はしぼむ」存在でしかありません。人間もまたそのような存在でしかありません。しかしその弱い枯れ果てていく世界を再創造する神の言葉の力があります。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」という主の言葉を聞かされ、預言者は民に向って語ることのできるこの言葉を与えられたのです。この「とこしえに立ち続ける」神の言葉の永遠性が、人間の生に朽ちることのない命を与えるのです。だから、その呼びかけに聞くことが命なのです。神は罪を犯して背く民この民に与えた自らの約束をいつまでも覚えておられるお方です。神は、その契約に対して誠実にこの民を再び「わたしの民」として呼び戻されるのです。「神の言葉がとこしえに立つ」のは、神の約束による創造性が不変だからです。

神は心を固く閉ざした民に向かって、ご自身にある未来の歴史から、その歴史を新しく開かれます。神にある未来から私たちの歴史が新しく開かれるということは、逆に言えば古いものがもはや本当に過ぎ去ったということを意味します。40章2節に語られているように、「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は赦された」という言葉を心に刻みつけ、「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」といって、新しく歩み出すことを意味します。

この言葉を受け入れる時、私たちの人生は敗北から勝利に転換します。この勝利の喜びを告知するものへと転換します。神は、力を振るって立ち上がろうとしても立ち上がれなかった者を立たせ、大きな声で勝利の喜びの知らせを語ることのできなかった者を敗者の中から立ち上がらせ、勝利者としてその喜びの良い知らせを伝える使者とされるのです。

それ故、預言者は、9節において次のように主から呼びかけられています。

高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。

預言者は、このように語るべき言葉を与えられたので語ることができます。御言葉に仕える牧師は、一人の人間としていつも語る言葉を持っているわけではありません。「良い知らせ」(福音)というのは、主が変えてくださる現実、救いの言葉です。主がこのことを明らかにし、とこしえに変わらない救いの言葉を示してくださらなければ、御言葉に仕える者は、何も語ることができません。しかし、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」ことを主ご自身が明らかにされ、その言葉を与えられる神は、預言者に「良い知らせを」語るために「力を振るって声を上げよ」といわれます。語ることに「恐れるな」といって励ましておられるのです。

このように、預言者も民もいっしょに伝えることが許された福音は、

見よ、あなたたちの神
見よ、主なる神。
彼は力を帯びてこられ
御腕を持って統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前に進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いていかれる。(10-11節)

というものです。

敗北の人生ではなく、勝利の人生への変革は、神が私たちの主として「力を帯びてこられる」ことによって起こります。私たちの命、存在は、見捨てられていたのではなく、「主の働きの実り」として「御前」に評価されて置かれています。そして、神は、羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱くようにして、私たちの全存在を抱き留め、受け入れてくださり、羊飼いが小羊を安心させてその母のところに導くように、わたしたちの新しい人生を導いてくださるといわれています。もう二度と「わたしの民でない」といって捨てることのないように、主はその太い腕でしっかりとわたしたちを抱きとめてくださり、わたしたちを治める王として来られるというのです。小羊として懐に抱くその救いは、子を懐に抱いている人間の母さえ導くほど豊かに強い力で支えてくださるというのです。

新約聖書ペトロの手紙第一1章24-25節に、イザヤ書40章7-8節が引用されています。そこでは、「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。これこそ、あなたがたに福音として告げられた言葉なのです」、と記されています。そして、ヘブライ人への手紙13章8節に「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と記されています。

神がイエス・キリストにあってなされた救い、イエス・キリストが私たちに約束してくださる救いは、きのうも今日も変わらない救いとして示されています。ただ示されているというだけでなく、変わりなく存在します。救いが変わらないということは、イエス・キリストが羊飼い(ヨハネ10章)として私たちを懐に抱きかかえて、その命に預からせるように導きを与えてくださる導きそのものが変わっていないということを意味します。

この変わることのない神の言葉に委ねて、新しい命に立つようにと、神はわたしたちを招いておられます。

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