アモス書講解

18.アモス書8章1-3節『審きの確信』

前回述べた通り7章1-9節にある三つの幻と8章1-3節にある第四の幻は一つのまとまりになっています。特に、第三の幻と第四の幻は対になっています。第四の幻においても、預言者は、全く日常的な事柄に注意を向けるように、神から促しを受けています。この体験は、秋に起こりました。預言者アモスが、主から見るように示されたのは、熟した果物の入った籠です。そこに入っていた物自体は別に珍しいものではなく、その時期に採れる一籠の夏の果物に過ぎません。だからこの場合も、第三の幻同様、その事物の特別の意味を分からせるのは、預言者の洞察力ではなく、神の問いかけです。新共同訳はカイツというヘブル語から翻訳されたことを示すために、「果物」のあとに括弧書きでその語を入れています。アモスに示された籠の中に入れられている果物自体は、その時期に毎年採れるものであり、それ自体が特別なしるしを示すものとして理解することはできません。しかし、この語は、「何が見えるか」と問われたアモスが「一籠の夏の果物(カイツ)です」と答えた後に、主は「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た」と語ることによって、この果物(カイツ)が「終わり」を示す語呂合わせに用いられ、終末のしるしであることが明らかにされています。預言者が、示された幻をいくら直視しても、その形状からは終末についてのしるしを見ることは出来ません。その事柄をイメージすることは、不可能でありました。たわわに実ったその果物からは、暗い審きを表現するものは何も無いからです。

従って、終末の審きを示す説き明かしは、徹頭徹尾神に由来します。それを説明しうる人間的な可能性は何もありません。それゆえ、アモスにとって審きの確信は、人間的熟慮や連想力に長けた自身の宗教的才能によるものでなかったのです。その確信はただ外から、全くわたしの外なる神から与えられるものでありました。

神は、よく熟した果実をアモスに示し、ただカイツ(果物)という言葉から、ケーツ(最後)へと彼の思惟を向けさせ、「もはや、見過ごしにすることはできない」イスラエルに下される終末的な審判について語りました。

その日には、必ず
宮殿の歌い女は泣きわめくと
主なる神は言われる。
しかばねはおびただしく
至るところに投げ捨てられる。
声を出すな。

という審きを、神はアモスに告げ、恐るべき破局がいまや既成の事実となっていることを示します。今や、神にあっては、審きの宣告は実行と同義語であり、絶対確実な現実でありました。

だから、アモスがこの神の言葉を受けた時、如何なる赦しも期待できない現実として受け止めました。それは、第三の幻においてもそうでありました。

アモスはこの二つの幻において、神の異なる現実を見ています。最初の二つの幻においては、彼の哀願を受け入れ、考えを変え、その意図を取りやめる神が立っておられる姿を見ていました。しかし、後の二つの幻では神の違う姿を見ました。そこで見たのは、その審きにいかなる執り成しの祈りも認めない神です。

最初の二つの幻においても、神は既に審きを始めておられたにもかかわらず、預言者の哀願の祈りによって中止されたのであれば、可能性としては後の二つの幻においても、既に始めておられる審きを、中止されるよう哀願の祈りを成しうるはずです。しかし、アモスは如何なる哀願もせず、神に抗弁する如何なる言葉も語っていません。この事実は、全ての人間的抗弁も初めから封じてしまう神の無条件の真剣さが、預言者に示されたことを明らかにしています。

これ以後アモスは、如何なる抗弁もゆるさない絶対的な主である神の確実性の中に、身を委ねる者となりました。これらの幻は、アモスにその確信を与える決定的な体験となりました。アモスはこの確信によって、最初の二つの幻と違った対応を取ったのです。

アモスは、今や変えることの出来ない神の決定に、無言の服従において、預言者として立つことになりました。アモスの根底にあるのはこのような認識です。だからといって、アモスがもはや民のために執り成しの祈りをやめてしまったのでも、憐れみの心を持たなくなったのでもありません。

アモスはこの態度によって、神のみを示し、神を証しました。そして、預言者としての彼の務めが、何であるかを民に明らかにしたのです。だから神についての証は、常に彼の個人的な出来事の記述を支配し、人間的な事情は第二義的な意味しか持ちません。預言者が自己について語るときは、それは、神の証について役立つことに限られます。言い換えれば、神の言葉を伝えるために、預言者の生活が、ホセアの場合のように犠牲にされることが起こることもあります。預言者は、そのようにして、初めて神の言葉に仕えることが出来ます。

この場合アモスは、神の前に沈黙し、従順に神に聞く、そして、そのまま民に自らの体験を語ることによって、神の審きの言葉を聞くことの大切さを民に示す以外何も出来ません。しかし、審きを告げる神の言葉を徹底して聞くこと、そして、その審きを徹底して受けること、その服従の姿勢の中に、人は、神にある将来、神にあって開かれる将来を真剣に期待することが出来ます。アモスはそのように神の言葉を聞き、審きを告げます。神の審きを潜り抜けうるものは誰もいません。

だから、徹底して十字架の下に立ち、その言葉の前に自らの罪を悔い、その審きを聞き、無言の内に受け入れる者には、主イエスの復活の力と希望が現実の力となって働きます。そのことを、アモスの御言葉を受ける姿勢から学ぶことが大切です。

旧約聖書講解