申命記講解

14.申命記13章2節―19節『偶像礼拝への警告』

本章は、イスラエルにおいて「一緒に他の神々に仕えよう」(3節、7節、14節)、との唆しがなされた場合、そのような者たちを如何に排撃すべきかが、三つのタイプに分けて説教する言葉を記しています。

第一のタイプは、2-6節に論じられています。それは、「偽預言者」あるいは「夢占いする者」などの宗教指導者が、「しるしや奇跡を示して」民を異教へ誘う問題を扱っています。

しかし、この二種類の人物が、その職業上の機能によって、どのように区別されているかは、この箇所を読む限り、はっきりしません。ここではもっぱら、特別に委ねられた特別な力によって、その人の言葉が権威を持って作用を及ぼすという、そうした人物のことが問題となっています。エレミヤは、この二種類の人物を如何に吟味すべきかを、エレミヤ23:25-32において、以下のように語っています。

わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、「わたしは夢を見た、夢を見た」と言うのを聞いた。いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえにわたしの名を忘れたように。夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。
もみ殻と穀物が比べものになろうかと
主は言われる。
このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。

預言者が、自ら執り行った「しるし」によって、自分に授けられている全権を認定させることができたという可能性が、状況を全く疑わしいものにしています。イスラエルにも、神の人が、奇跡を行い、ある出来事を示すことにより、その言葉を信ずべきものとなしたという、慣習は存在しました。しかし、それは、神の人が、しるしを透視によって予言することができた、という事実に限られていました(サム上10:1以下、列王上13;3、列王下19:29等々)。預言者がそのように、奇跡行為を行う者が神の全権を委ねられて語っているかどうかを教示できる時代には、その疑念を払しょくすることはできたでしょう。

しかし、申命記の説教者は、神の啓示理解が混乱している時代に向かって(出エ7:22、8:3参照)語っており、そうした時代の人を救済しょうとしています。それは、しるしによって確証された教示であっても、イスラエルをゆるぎないヤハウエへの帰属を失うものであれば、そういうものに幻惑させてはならないことを告げています。

申命記の説教者がどの時代のどのような預言者のことを考えているのかは定かではありませんが、カナン的な預言者(列王上18;19)がヤハウエ信仰に敵対するサマリアの状況が問題になっているのだろうか、あるいは紀元前722年以後の時代における北王国の状況が問題になっているのだろうか、とフォン・ラートは問うていますが、鈴木佳秀は、ヨシヤ王の死後(前609年)、異教化するエルサレムにこうした宗教指導者が跋扈したことを示唆するものとしている。

イスラエルは、「その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。・・・あなたの神、主が歩むように命じられた道から迷わせようとする」者を除去し、そのような道へ誘うすべての悪を除去すべきことが教えられています。カナンのような異教的・偶像崇拝が蔓延する世界の中で生きるキリスト者にとって、これらの言葉は、心して聞くべき言葉であり、異教化する礼拝の在り方、説教のあり方についても考えさせられる大切な言葉です。

第二のタイプは、7-12節に論じられています。7-12節は、背教への誘いが家族の中から起こる問題に焦点を当て、その誘惑を退ける個人的な決断を迫る重要な教えが語られています。家族の一員が異教宗教へ誘惑を受け、それに同調し、家族に同じ信仰へと誘い、ヤハウエ信仰からの背教へ導くことは、家族の信仰の一致を崩し、命にかかわる重大な危機を襲来させるものとして、警告する大切な教えを語っています。
第三のタイプは、13-19節に論じられています。13-19節は、最も深刻な事柄を扱っています。ヤハウエ信仰から背教への動きが、一つの都市全体に及んでいる場合の問題が扱われています。それは北イスラエル王国で常に起こっていた問題ですが、南のユダ王国においても起こった問題です。13節の「どこかの町」を、鈴木佳秀は占領地の町に相当すると説明します。

分捕り品を集め、町もろとも焼き尽くし廃墟とすべしという聖絶命令(17節)は士師記20章のベニヤミンに対するイスラエルの宗教連合(アンフィクチオニー)戦争の問題として、フォン・ラートは説明しています。

三つの単元に共通しているのは、イスラエルの神からの離反は厳罰せられねばならない、とする呵責なきその厳しさにあります。そして、申命記が古い部族連合の宗教的な制度を復活させていることは注目すべきことです。契約の書において、「主ひとりのほか、神々に犠牲をささげる者は断ち滅ぼされる」出エ22:19)という教義が成文化されている。「あらゆる異国の祭儀に対するこの排他的な立場は、ヤハウエ信仰の最も中心的な本質に属しており、ヤハウエ信仰の起源にまでさかのぼる」、とフォン・ラートは指摘しています。その上で、「家族という狭い領域内で、ヤハウエに従うか、それとも背反するかの決着を付けるような場合、その語りが、特に強い印象を与えるものになることは理解できる。ヤハウエの関与が、あらゆる個人的・家族的事由の上に、置かれなければならないのである」、とフォン・ラートはその申命記注解の中で述べていますが、彼のこの指摘は、宗教国家としてのイスラエルが解体状態にあり、異教的な世俗都市の中での個々人の信仰の在り方を考えねばならない状況の中でこそ、大きな意義を持つ指摘であると考えるべきであろう。それは、バビロンに捕囚とされた民や、その時代におけるヤハウエ信仰の在り方を考える上で、信仰の自由の戦いとして理解するなら、すぐれて現代的な意味を持つ。特に日本のような異教的宗教風土の中での個人の信仰の在り方、信仰の家族(クリスチャンホーム)の在り方を考える上で、重要な示唆を与える言葉として、この説教を聞く必要がある。

旧約聖書講解