詩編講解

26.詩編34篇『主を仰ぎ見る人は光輝き』

この詩篇は、「どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」という言葉で始まっています。

この詩篇の作者は、自らの経験を普遍的な真理として語りたがる傾向を持つという点では、詩篇第25篇の作者と似たところがあります。「どのようなときも主をたたえ 賛美の歌を歌う」ということは、口にすることはたやすくても、実際に実行することは決して容易なことでありません。しかし、この詩篇の作者には、苦しいときも主を賛美することによって、主の恵みに触れ、深い喜びを味わうという体験がありました。彼は自らそのような体験をしたからこそ、貧しさの中で苦しんでいる人に向かって、「喜び祝え わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」(3-4節)と呼び掛けることが出来ました。

多くの人は、貧しさや苦しみをたびたび経験すると、大抵の場合、その貧しさと苦しみに負けてしまい、主に恨みごとを言ったり、人生をすねてしまって、主を讃えることも、賛美の歌を歌うことも止めてしまいます。

しかし、そうした貧しさや苦しみを味わう中で、私たちにとって一番必要なことは、主に恨みごとを並べ立てることではなく、「主をたたえ、賛美を歌う」ことであるとこの詩篇の作者は言っているのであります。

実際、彼は貧しさと苦しみの中で、主を求め、主にその苦難の中から助け出される体験をしました。その体験を5節で次のように語っています。

わたしは主に求め
主は答えてくださった。
脅かすものから常に救い出してくださった。

作者は、苦難の中で、「主をたたえ 賛美を歌うこと」によって、主の恵み深さを味わうことが出来たのです。

それ故、この詩篇の作者は、自分の経験した「主の恵み深さを」「味わい、見よ」(9節)と勧めることができるのです。主に身を寄せて、主を畏れて生きる者には、欠けたものがなく、幸いと喜びのみがあると、この詩篇の作者は語っています。主を求める人を、主は脅かす敵から常に救い出されるので、次のようにも言っています。

主を仰ぎ見る人は光と輝き
辱めに顔を伏せることはない。(6節)

一点の曇りもなく、辱めに顔を伏せる必要もない、喜びと希望が輝く確かな歩みがあるというのです。

だからといって、作者は、安価な恵み、単純で皮相的な応報信仰を語り、それを勧めているのではありません。主に従う人には何の災いもなく、苦しみもないなどといっているのでありません。主を信じる者も、主を信じない人と同じように災いに遭うだけでなく、その災いが度重なることさえあることを作者は知っています。恐らく彼自身そのような度重なる災いを現実に経験したのでしょう。次の20、21節のことばは、彼の経験から語られたものでしょう。

主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように
彼を守ってくださる。

この詩篇の作者は、何度となく災いを経験したのです。しかし、その度に主の御名を呼び求め、主を褒め称えつつ、主に委ねて生きてきたのです。そして、彼は、そのたびに、主によって災いから助け出される体験を味わってきたのです。

この詩篇の作者は、信仰者の人生に貧しさや苦しみがなくなるとは語りません。むしろ、悩みも、苦難も、時に連続して襲い来ることさえあると語っています。それは、主に信頼する正しい者の生涯につきものであるとさえ言っています。

しかし神は、ご自分の前に砕かれた心の近くにいまし、悔いる魂を救ってくださるというのです。いま、様々な不幸や貧しさや苦しみに打ちひしがれている魂に向かって、作者は、自らの経験から、これらの言葉を語っているのであります。

人生に襲い来る苦難に対し、神に向かって何故と問うことが私たちのなすべきことではありません。

ヨブは主の前に正しい人として歩み、多くの幸いに恵まれていましたが、サタンは、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(ヨブ記1:9)といって、彼を災いに味合わせるよう主に願い、ただ彼には手を出すなといわれて、災いにあわせることを、主から認められ、ヨブの苦難が始まりました。

このためヨブは多くの財産を失いました。しかしヨブは、次のように言って、その苦難の中でも主をたたえて生きることを止めませんでした。

「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)

主は、サタンにヨブの無垢な信仰を見たかといわんばかりに語りましたところ、サタンは、彼の骨と肉に触れれば今度こそ、「あなたを呪うに違いありません」いい、主から、ヨブの「命だけは奪うな」といわれて、災いにあわせることを認められ、ヨブの災いが再び始まります。ヨブは酷い皮膚病にかかり、それを見たヨブの妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(ヨブ記2:9)と言いましたが、ヨブは、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ記2:10)と答え、このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった、といわれています。

しかし、友人たちの見舞う中で、やがて口を開き、生れた日を呪う言葉を口にしました。そして、ヨブの友人たちとの苦難の意味についての論争が始まります。ヨブはその論争の中で、自分の正しさを主張するのに一歩も譲りませんが、嵐の中から呼びかける全能者にいます主の次のような言葉を聞きました。

「これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。」(ヨブ記38:2)

そして再び、次のような言葉を聞きます。

「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。」(ヨブ記42:3)

そして、ヨブは、次のように答えています。

「あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ記42:5-6)

私たちの信仰が本物であるか。苦難の中でしばしば問われることがあります。そのなかで、私たちがなすべきことは、現在の状況如何に係わらず、どのようなときも主を信頼し、たとえそれが苦難であっても、主のなさることに意味を見出し、主を誉め讃えて生きることが大切であると、これらのヨブと主との対話の中で教えられています。

「どのようなときも主を信頼し、たとえそれが苦難であっても、主のなさることに意味を見出し、主を誉め讃えて生きること」が一番大切な信仰の営みであります。ヨブもこの詩篇の詩人も、苦難の中でその信仰の大切さを学びました。

私たちの顔は、「主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。」(詩編34:6)という言葉を、深く噛みしめて共に歩みたく思います。

旧約聖書講解