マラキ書講解

5.マラキ書2章17節-3章5節『審判の日の到来』

この段落の主題は、神の審きによる清めです。捕囚から解放されて、祖国に帰還を果たし、神殿の再建もなり、既に長い年月が過ぎ去っていました。しかし、ハガイやゼカリヤが約束した栄光が、到来したとは思えない状況がありました。ペルシャの支配から抜け出せず、神の前に敬虔に歩もうとする者の生活の苦しみは、依然変わりがないのに、神に聞き従わない悪を行う不敬虔な者たちが、栄えていました。

2章17節は、このような背景の下でなされた、人々の呟きの問いかけを取り上げています。悪人が栄え、神に従う者が苦しむ現実を見ている民は、それでは神を信じることにどんな意味があるのか、義である神は一体どこにいるのか、という疑問を抱いきました。彼らは、こうした疑問を抱き、その疑問を預言者にぶつけ、神に呟き、その言葉によって「主を疲れさせてい」ました。

神の忍耐の限界を試すように、民は、こうした疑問の言葉によって、神をわずらわせていました。神を疲れさせる原因は、「悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか 主は彼らを喜ばれるとか 裁きの神はどこにおられるのか」という呟きにありました。かつて、預言者が語った約束が実現しないこと、それを実現できない神の無力さに対し、皮肉を持って呟き、民は、神を多いに悩ませていました。

悪者が栄え、善人が苦難の道を歩むことに対する疑問は、旧約聖書においても珍しいことではありません。それは、エレミヤにも、ハバクク(ハバクク1:13)にも見られます。

エレミヤは、「なぜ、神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」(エレミヤ12:1)と問い掛けていますが、彼の問い掛ける「なぜ」には、「正しいのは、主よ、あなたです」という信仰がまず示されています。神の沈黙の底には、必ずあなたの答えがあるはずだ、その答えを早く聞かせてほしいというエレミヤの祈り願いが、このような問いかけを生んでいるのであります。エレミヤは、真摯な態度で神に問いかけ、神と真正面に向かい合って、その答えを待っているのです。

しかし、マラキ書の民は、「悪を行う者はすべて、主の目に良しとされている」と、皮肉をもって主に問い掛けています。この民は、決して真正面に神と向かい合ってはいません。斜めに構えて、神を見つめています。そこに彼らの不信仰がありました。そのような態度で「主を疲れさせている」現実があったのに、「どのように疲れさせたのですか」と開き直る、民の驚くべき不信仰を見て、預言者は途方にくれ、神は、民の不信仰に呆れ果てています。

民が主に向かって呟いた、この第一の疑問は、3章14-15節において繰り返され、神の答えは、3章17-18節において与えられています。

民の第二の疑問「裁きの神はどこにおられる」に対する答えを、3章1節から与えられます。従って、この段落において答えられているのは、第一の疑問についてのみです。

「裁きの神」の「裁き」(ミシュパート)には、「正義・公義」の意味があります。この段落のテーマは、「裁きの神」が「裁きのために」近づいているということです。民は、自分の汚れを棚に上げて、神の不在、神の正義・公義のなさをあげつらいますが、今、求めなければならないのは、「裁きの神」ではなく、むしろ自分の不純(不信仰)に気づき、清めてもらうことでありました。

これに気づかない民に、「見よ、わたしは使者を送る」という主の答えが示されます。「わたしの使い」(3章1節)という語は、本書のタイトルとされていますが、これが、この書の著者とされている預言者マラキ自身を指すのかという点について、注解者の間で議論が分かれています。それが誰であるにせよ、この「使者」は、神の統治を執行する全権大使のことが意味されています。新約聖書は、この「使者」を、キリストの宣教を準備する洗礼者ヨハネ(マタイ11:10、マルコ1:2)として理解しています。

しかし、ここではそれほど遠い先の事が言われているのではありません。この「使者」は、「裁きの神」の到来に先立って派遣され、神のために「道を備える」働きをするということが述べられています。この「使者」が明らかにする「道備え」は、イザヤ書40章3節にイメージされているのとは違っています。イザヤ書40章3節には、終末論的な栄光のイメージがあります。しかし、マラキの描く「道」には、そのようなものは見られません。このイメージの違いは、それぞれの預言者の生きた、時代の状況と深い関連があります。イザヤは、捕囚の民にその帰還の日の到来を約束し、帰還後の栄光について、希望を語りました。ハガイやゼカリヤも、その希望の下における、神殿の再建を訴えました。しかし、マラキの時代は、神殿が再建されたのに、第二イザヤやハガイやゼカリヤが約束した栄光が、到来したとは思えない状況が続いていました。ペルシャの支配は依然として続き、苦しみの生活は続いていました。

マラキは、そのような現状にあって、彼ら先輩預言者とは異なる終末的栄光について語りました。しかし、2-4節は、後の時代の挿入である可能性を否定できません。預言の成就しない原因を、民の背神性、不道徳、不正義にあると見て、その純化こそ成就の不可欠な条件と見なし、終末の栄光の相対化の、ユダヤ教的解釈の試みとして見ます(この解釈は、エホバの証人の理解に近い)。しかし、そのような解釈を、必ずしもとる必要はありません。

マラキがここで告げているのは、「裁きの神はどこにおられるのか」と、その不在を感じている不信仰の民に向かって、「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所にこられる」ということです。「突如」と新共同訳聖書は訳していますが、この語は突発性・意外性よりも、「直ちに」という時の切迫性と神の近さ(不在感、遠さを感じる者に)が強調されています。

「契約の使者」という表現は、旧約聖書中ここだけに現れる語です。これは契約による神と民との関係を基本としてみる、マラキ書の主張(特に1章)と調和しています。いずれにせよ、その到来は、人々の期待とは全く違った形でなされます。人々の期待したのは、神に現状を変えてもらい、保護を求めることでありました。しかし、神の「使者」の到来は、「精練する者」「銀を清める者」として実現するといわれています。その具体的内容は以下の5節において述べられています。

裁きのために、わたしはあなたたちに近づき
直ちに告発する。
呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者
雇い人の賃金を不正に奪う者
寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者
わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。

「裁きの神」の到来は、彼らの期待とは裏腹に、耐え難い苦痛を伴って実現します。ゼカリヤは、「この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」(13:9)とすると告げました。神の裁きの精練に耐えて純化される真の敬虔な民として残るのは、「3分の一」であると語られます。マラキも同じように、厳しい主の審判に残る者の、少ないことを告げます。彼らは、悪しき者の繁栄を嘆いているが、主はその事実を、見過ごしにされているわけでありません。

「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する。」

「直ちに告発する」は、直訳すると「わたしはすばやい証人となる」です。「裁きの神はどこにおられるのか」という呟きに対する神の答えが、「わたしはすばやい証人」となるであります。神は、呪術、姦淫、偽証、賃金の不払い、貧しき者に対する虐げ、等々の不正を見逃されません。特に、民の指導者たちの不正を、見逃されません。その不正を見て、「裁きの神」がいないといって、自分も同じように振る舞おうとする民も、「すばやい証人」となられる神に、裁かれることになります。ここには、容赦のない、すばやい「裁きの神」の来臨と「裁き」のあることが、告げられています。しかし、その「裁き」こそ、この不義が蔓延する中で、耐え忍び神の約束を信じて真の敬虔の中を生きている者に、大きな希望の慰めとなることが、語られています。十字架の苦難の道を信じ、その道を共に生きるキリスト者に与えられる慰めが、ここに語られています。

旧約聖書講解