エレミヤ書講解

17.エレミヤ書9章9-23節『哀歌の要請』

9-21節に歌われているのは、差し迫る神の審判に対する哀歌です。それを歌えと要請する預言者の言葉です。

9節には、荒れ果てた国土に対する嘆きが歌われ、哀歌を要請する言葉が記されています。ここで誰が嘆いているのかは、はっきりとはわかりません。だが、それは多分エレミヤ自身であると考えられます。ここでも、エレミヤは民と共に苦しんでいます。いつもなら大地には、群れの鳴き声によって活気づいているはずの牧草地は荒らされて見捨てられたままになっており、死に絶えたように広がっています。そこには、人間だけでなく、野獣のなく声も姿もない、敵によって荒らされた郊外の地の慰めようもない有り様だけがあります。山と谷には死の静けさが覆っています。人々は皆町に避難してそこにはおらず、家畜も野の獣も鳥も、皆逃げ去ってしまったので、その鳴き声さえ聞こえない、不気味な静けさだけがあります。その現実を見て、恐怖におびえ苦しんでいる預言者がここに立っています。神の刑罰は、この恐怖の中で既に現実のものとなっています。しかし、ここには、神の審判の厳粛さと同時に、共に苦しむ神の愛の痛みもまた表現されています。

その姿は間近に迫ったエルサレムに対する審判の日の姿を予兆するものです。エルサレムもまた瓦礫の山とされ、山犬の住処とされ、ユダの町々は荒廃させられ、そこに住む者はいなくなると言われます。ここにおいて向けられている神の審判の言葉は、7章1節以下の場合と同様、誤った希望と安全の確信に対して向けられたものであります。

11-15節は、後の時代の申命記史家の補足的な注釈の言葉であると考えられます。何故これらの審判が起こったのか、起こらねばならないのかを預言者の説教を通して解釈し、適用拡大し、エルサレムの滅亡後の現在の悲惨さの原因が何にあるのかを、読者に悟るように促しています。主の御言葉に聞かないその徹底した背信の罪がそれをとうとう不可避なものとしてしまったのだと語られています。かくて神の審判は、この背信の民の滅亡によって初めて完遂されたことが明らかにされています。

16節は、9節に直接繋がっています。9章16-21節は、「死者のための嘆き」への呼びかけです。これはエレミヤの言葉の中でも最も印象深い言葉の一つであるといわれています。この悲惨な事態を嘆き悲しむために職業的な泣き女を招くよう要請されています。その嘆きは郊外の地へ及び、敵によって壊滅させられた住居を見捨てねばならないことと、今や襲い来る神の審判に、「いかに、我々は荒らし尽くされたことか。甚だしく恥を受けたことか」(18節)と悲嘆する絶望的な避難民の思いが込められています。

女たちよ、主の言葉を聞け。
耳を傾けて、主の口の言葉を受け入れよ。
あなたたちの仲間に、嘆きの歌を教え
互いに哀歌を学べ。(19節)

と、エレミヤが語るとき、その新しい嘆きの歌がそれまでの嘆きの歌よりも一層深刻な事態が含まれていました。

見捨てられた荒涼とした町には人も家畜も野の獣もいなかったかもしれない。そしてそれは殺伐とした鳴き声さえ聞こえない不気味な静けさであったかもしれない。しかし、エレミヤがここで歌えという哀歌は、そんな程度の悲惨ではありません。その哀歌は今や死に行く者への悲しみを歌う、「屍の歌」として歌わねばならないと言われます。

20、21節に歌われる屍の歌は、旧約聖書がすべてを圧倒する死の力について語るものの中で、最も印象的なものの一つです。エレミヤはわずか数行の中に、不気味な美と逃れ得ない重圧という二つの情景を描き出してみせます。

死は窓に這い上がり
城郭の中に入り込む。
通りでは幼子を、広場では若者を滅ぼす。
このように告げよ、と主は言われる。
人間のしかばねが野の面を
糞土(ふんど)のように覆っている。
刈り入れる者の後ろに落ちて
集める者もない束のように。(20,21節)

死は町の中では略奪殺戮の徒として敵が襲います。戦場では仮借ない掃討の徒として襲います。このように死が内と外に猛り狂うといわれます。死は突然に家の中に押し入ってきて、鍵が掛かっているはずの戸も窓もこじ開けられ、堅固な城さえもこれを防ぐことが出来ません。このように、死は、ある人々には、盗人のように、こっそり窓から訪れ、何も知らないで通りや広場で遊び戯れている子供たちや若者たちの命をあっという間に取り去っていきます。戦場には数々の死体が辱められて、横たわるといわれます。それは、農作物の収穫の刈り取りの比喩を以て語られるだけに、その残虐さが一層強く印象づけられます。この残虐な死の刈り取りの後を追って、刈り取られたものを集め、それを納屋に収める者は誰一人いないのです。それほど仮借ない死の現実が見られるというのです。この死者のための嘆きは、今生きている人に向けて語られています。このような独特な語りかけを通して、預言者は神の言葉を告知しています。「先取りして歌われるこの嘆きは、最も恐ろしい威嚇の言葉である」(W・ルドルフ)。エレミヤはこうした死という現実の前に神の現実を認めています。そして、エレミヤは、神の厳粛な裁きの現実の前にひれ伏し、それがいかに厳しい現実であろうとも、なお、死を定めた神を信じる一人の人間として、畏怖の念を持ってその現実を見つめています。この死の背後には、ひとりの裁判官がいます。彼こそがこの死刑判決を執行するものです。エレミヤは、人々に同情しつつ、また恐れながら、この審判の使者として、生きている人々に死者のための嘆きの歌を歌い始めなければならなかったのです。しかも彼はまた、民の一員であり、人々と共に涙を流さねばならなかったのです(17節b)。

この嘆きにおいて、神と民との特別な関係が明らかにされています。神は、自分の民の背きを嘆いています。他方、審判の後、残りの者たちは神に対して嘆きます。そしてそのようにして、かつては自分たちが離反した神に、再び民は立ち帰るのです。だから、嘆きが先取りされているのは、その立ち帰りを求める、救いの呼びかけとしての意味を持っています。
エレミヤは、なぜ人々がこのような哀歌を歌わねばならないのか。主の審きを避け得ないことになったのか、この哀歌の中でその理由を、「主の言葉を聞け、耳を傾けて、主の口の言葉を受け入れよ」(19節)とだけ述べています。彼らがどのように主の言葉を聞かなかったのか、ここには具体的に述べられていません。エレミヤの問題にしたのは、心における根本的な態度であったことは間違いありません。それは具体的には、礼拝の問題があったでしょう。それを申命記史家は、11-15節で、彼らの時代の現実に合わせて注釈しましたが、22,23節にあるように、生き方、倫理の問題として捉える人々もいました。

知恵ある人はこれを悟れ。
主の口が語られることを告げよ。
何故、この地は滅びたのか。
焼き払われて荒れ野となり
通り過ぎる人もいない。(11節)

22,23節は、11節に関連するものとしてここに置かれています。この編集も捕囚後に属すると考えられますが、22,23節の言葉はエレミヤ自身の言葉であると考えられます。

預言者エレミヤが見た人間の悲惨な現実とは、神から切り離された自己の知恵、力、富を誇る自己偶像化の問題でありました(22節)。自らの生の究極の決定要因として、自己の知恵、力、富に信頼を置く生き方が、既に自己偶像化の道であり、それがまた現実の宗教生活においても、神を自分の意のままに利用しようとする、異教徒の生き方に追随していく結果となって現れるとエレミヤは洞察しています。エレミヤはこの倒錯した見方に対して、「主を知ること」を誇る信仰の立場を明らかにします。

むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい
目覚めてわたしを知ることを。
わたしこそ主。
この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事
その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。(23節)

神を恐れることがすべての知恵のはじめである、という知恵に関する命題は、詩篇や箴言だけに見られる信仰ではなく、預言者たちにも見られるものでありました。その生涯の起点を神に置き、そこから人生を方向づけ、神を中心として組み立てられる人だけが、神を知ることの中でのみ成立する人生の真の賢さを持つことができる、エレミヤがここで言わんとしている事はこの点であります。パウロはこの言葉をコリントの信徒への手紙1章31節において引用し、キリストの十字架が、愚かな人間の知恵を滅ぼし、神の知恵としてなされた救いの業であること明らかにしています。

慈しみ、正義、恵みを施すのは神です。「主を知る」者、即ち主を知って、主を恐れ、主を誇って生きる者は、常に主から賜るところの贈り物を受け取る存在としての人間たらんことを欲します。そして、栄光をただ神にのみ帰すことを願って生きます。そのような生き方の中に自らの生き方の最高の意義を見出します。このような神認識を具えた人々に神の恵みはとどまる、といわれています。救いの約束はそのような人々に向けられています。神のために自らを捧げる人たちを神は喜ばれます。これが旧約聖書における福音の基調音として流れ、新約のイエス・キリストの福音へと繋がっています。
しかし、旧約の時代に生きる人が、エレミヤの哀歌の要請の中にある「主の言葉を聞け」という言葉と、主の前に生きる真の知恵を語る言葉と結び付けて理解しようとしたことに、私たちの信仰の実際的なあり方として、大きな示唆を与えてくれます。今、自分たちを襲っている悲惨な現実は、御言葉に聞かないことにあるのは確かです。しかし、その御言葉を今どのように聞くか、それぞれの時代を生きる人の問題です。その意味で、この知恵の問題は、キリスト者の御言葉に聞く信仰のあり方として、いまの時代を生きる私たちに大きな示唆を与えてくれます。

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