イザヤ書講解

33.イザヤ書41章8-13節『恐れるな』

前回、1-5節の学びにおいて、イザヤ書41章は、誰がまことの神かという問題を、法廷弁論の形式で論じられているということをお話しました。1-5節は、神が歴史を導く主として、法廷に異教の神々、国々の民を招集し、裁きを行なわれることを明らかにしています。そこでは、異邦の王さえも、しもべとして用いて、イスラエルを救い出すこのできる神が、「初めから代々の人を呼び出すもの、初めであり、後の代と共にいるもの」として自らを示し、歴史を導く主であることを明らかにし、その神が捕囚の地バビロンで今も苦しむイスラエルと共にいるという慰めと励ましが語られていました。

今日学びます8-13節は、法廷弁論の第二の主題が扱っています。しかしこの箇所は、法廷弁論というよりも、嘆き、悲しみ、苦しみを訴える礼拝者に、祭司がとりなし神の御名において聴許(ちょうきょ)するという形式が採られています。第二イザヤは捕囚時代の末期に、捕囚の第二世代として、民の苦しみを共感して生きていました。イスラエルの散らされた残りの者たちは、自分たちの運命を注視しつつ、神に向かって手を上げて嘆願して、恵みと慰めの言葉を期待しました。不妊の女といわれたハンナが自らの苦しみと願いをただ神に向かい嘆願するしかなかったように、捕囚の民イスラエルには、そのような嘆願の言葉を祈りとして口にすることだけが許されていました。ハンナの嘆きを聞きとりなしたのは、祭司エリです。エリは、彼女の嘆願に「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」(サムエル上1:17)といって、聴許の託宣を与える役割を担っています。ベークリヒという学者は、これを「祭司的(さいしてき)救済(きゅうさい)託宣(たくせん)」と呼び、第二イザヤによる救済予言の原型になっている、と言っています。

さて、8-9節において、イスラエルに対する呼びかけで預言者の託宣が始まっています。日本語には訳されていませんが、この箇所のヘブライ語の文章は、「しかし」という反意を表す「ワウ」という接続詞で始まっています。この「しかし」は、歴史における神の力の証明におののく諸国民に関係する裁きの弁論(1-5節)に対して、イスラエルに向けられた慰めの言葉を導くものとして用いられています。

神はイスラエルに、「あなたはわたしの僕」と呼びかけています。ヘブライ語の僕(エベド)という語は、保護し、安全にするという所属の要素と、その下に仕えるという従属の要素を同程度に表現するという特徴を持っています。但し、ここでのイスラエルに対する神の呼びかけでは、所属の要素が明らかに優っています。その点でエベド(僕(しもべ))という存在は、信頼・栄誉・庇護(ひご)を意味しています。イスラエルが神の僕であるということは、イスラエルには主がおられ、イスラエルはその方の下に保護されているということを意味しています。だからイスラエルは、その方に信頼することができ、またその方がイスラエルのために配慮されるということが意味されています。そして、もしイスラエルが主の僕であるなら、主の僕としてこの方の下に仕えることこそが、その本来的な生き方を表すということもそこから理解することができます。それはイスラエルにとって喜びとなり、光栄となります。8節には三つの同格文が含まれています。その第一の同格文「わたしの僕イスラエルよ」に続くのは、「わたしの選んだヤコブよ」という呼びかけです。この呼びかけは、9節で、「あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」という言葉で繰り返されています。救いは、わたしたちが選んで神を敬うという行為によってもたらされるのではなく、神が多くの諸国民の中からただ一つの民イスラエルを選んだという神の選びによってもたらされます。主イエスも、弟子たちに、「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。・・・わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)といわれています。救いの根拠と確かさは、この先行する神の恵みの選びにあります。神はその選びによって、われわれの存在に、ただご自身以外の誰も、また何者も奪い去ることのできない意味を与えておられます。神がわたしたちを選んだということが真実である限り、わたしたちには未来があります。第二イザヤにおいて神の選びは、歴史全体(4節)と創造全体における神の普遍的行為から際立っているということで、特別な刻印が与えられています。

そしてこの選びは、さらに、父祖にまで遡(さかのぼ)ります。第三の同格文、「わたしの愛する友アブラハムの末よ」がそれを示しています。ここは普通名詞が用いられるべきところであるのに、現在分詞形が用いられています。ヘブライ語の分詞は関係の動詞的特徴を表しますので、名詞の「友」とは別の何かを意味しているということは重要です。神とアブラハムはさびついた昔の関係でなく、いつも生き生きとした今の関係であること徒を意味しています。9節は、選びが神の歴史的関与において具体的に実現したことを述べています。神は、「地の果て、その隅々から呼び出して」、自ら選ぼうと思う者をとらえてきたのであります。この意味で神の言葉と行為の間には一致があります。9節のこの言葉には、アブラハムの召命とエジプトから連れ出すことが要約されています。この言葉によって、イスラエルの現状に対する神の働きかけが今も同じように現されることが暗示されています。「あなたはわたしの僕」と現在のイスラエルに呼びかける神は、かつてアブラハムを選び、イスラエルをエジプトから連れ出されたように、現在、捕囚として苦悩する民にも、変わらざる愛と導きの手を差し出す神として、「わたしはあなたを選び、決して見捨てない。」と呼びかけているのであります。このように呼びかけられている民は、「わたしの道は主に隠されている。わたしの裁きは神に忘れられた。」(40:27)という恐れに包まれていました。そのようなイスラエルの現状に対して発せられた、その恐れを取り除く主の呼びかけであります。イスラエルが今この約束を受け取ることができるために、自分たちを選び、決して見捨てなかった神の働きを、その長い歴史の中で、神の選びをどのように経験してきたかが想起されています。第二イザヤはその想起の下に民を立たせています。

10節の「恐れてはならない」という呼びかけは、章句全体の中心に位置します。この呼びかけこそ恐れを取り去るものです。人間に対して語られる神の言葉としての「恐れるな」という呼びかけは、まったく異なる二つの状況の中で発せられうるものです。そして、まったく異なる意味を持ちます。神顕現(けんげん)と結合してこの言葉が発せられるとき、人間の恐れは神顕現自体によって呼び起こされ、「恐れるな」という呼びかけがこの恐れを取り去ります。そしてこれと区別されるのは、人間の嘆きに基づき、しかもそれに対応する応答として発せられる「恐れるな」という呼びかけです。いずれの場合も、「恐れるな」という言葉は、呼びかけられた人間の危険に関連しています。この関連はこの第二イザヤにおいても考えられます。

恐れるなという理由は、10節の二つのことばにおいて明らかにされています。それは、「わたしはあなたと共にいる」と「わたしはあなたの神である」という言葉です。このように呼びかける神が、力が弱り果てて立ち上がれないと思っている人間に向って、「わたしはあなたと共にいる」と励まし、その現状に対しても「わたしはあなたの神として」希望に変えることができるという確かな言葉を与えています。神は弱り果てたあなたの手に「勢いを与えてあなたを助ける」といわれます。その手に勢いを与えるために、「わたしの救いの右の手であなたを支える」といわれています。神の右の手は、神の全能と力を表します。この言葉は、13節で繰り返され、「わたしは主、あなたの神」と自らを示される神が、弱り果てた力の出ない、「あなたの右の手を固く取って」、「恐れるな、わたしはあなたを助ける」と神は言ってくださるというのです。わたしたちも、病者を見舞う時、その人の手を固く握って、励ましを与えることがあります。しかし神の右の手に固く握られるその右の手には、神の助けが本当に与えられ、恐れを取り除く希望ある未来が開かれています。なぜなら、神はわたしたちの持つ苦悩、挫折、悲しみのすべてを引き受け、ご自身の約束する希望ある救いの中で憩わせ、慰め、救いの道を開いてくださるからです。

捕囚の民にはそれがどのように働くか、11-12節において、明らかにされています。そこでは、「あなたに対して怒りを燃やす者」「争いを仕掛ける者」「戦いを挑む者」、こうした者たちを、辱め、無にし、滅ぼされる、といわれます。こうして彼らの右の手をなえさす原因を取り除かれる、と主はいわれます。主の選びの民である彼らに対する変わりない主の愛がそのようにいつも表され、どんな現実にあるときも、主がそのような力を表すことができるし、いつもそのような力と導きを持って覚えていてくださるということを知る信仰をもっていることは、決して現状を悲観しない、生きる勇気と力をわたしたちに与えます。第二イザヤは、この神の選びにおける恵みをいつも覚えて失望せず立ち上がるように、わたしたちを励ましています。神の強い右の手が、病んで、萎えて、力がまったくでない手を固く取って、「恐れるな、わたしはあなたを救う」という神の呼びかけと共に与えられています。ここに本当の慰めがあります。

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