エレミヤ書講解

30.エレミヤ書19章1節-20章6節 『砕かれた壺』

18章1-12節には、エレミヤが主に命じられて陶工の仕事場にいくように命じられて行き、そこで陶工が失敗した自分の作品を躊躇なく砕く場面を目撃した出来事が報告されています。その中にはエレミヤが直面しなければならない出来事が示されていました。それは、「粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」という主の御旨が表わされる日のことが表わされていました。そして、その御旨がいよいよ現される時が来ました。

エレミヤは、その主の御旨を明らかにするために、主の命令に従って、陶器師から壺を買い、民の長老と、長老格の祭司幾人かを連れて、陶片のところに出て行ききました。エレミヤはそこで主の御旨を知らされます。(19章10-12節)

エルサレムの住民とその指導者たちの罪は主の前に目に余る甚だしいものでありました。エレミヤの執り成しの祈りと主の警告のことばを無視し続けたその罪に対する主の忍耐の時は過ぎ、エルサレムは「壺を砕く」ように砕かれ、無用となった壷の破片をゴミ捨て場に棄てるように、エルサレムもそのように主に捨てられることが、その象徴行為によって明らかにされます。壺の破砕は、神のことばを現実に力あるものとして劇的に表現するための行為でありました。同時代のエジプトにおいて、あるものの名を記した陶器を砕きその陶片を敵への呪いとする呪術的行為が見られますが、ここではエレミヤはただ神の命令によってそれを行っていますので、呪術的性格はどこにも見られません。それは、主がエルサレムに対してなそうとしておられる差し迫った事柄の象徴的先取りとして、神のことばの力の働きを強める役割を果たすものとして用いられているに過ぎません。旧約聖書では、威力は神にのみ帰せられるべきものです。神のことばは、神の威力の担い手にほかなりません。

19章3-9節、13節には、その審判の理由がもっぱらイスラエルの行なった偶像崇拝の罪に帰せられていますが、その説明は申命記的著者によるものと考えられます。

エレミヤはこれらの象徴行為とそれを説明することばを語ったトフェトからエルサレムに帰り、神殿で民のすべてに向かって語ったのは、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」(15節)ということばでありますが、ここにも申命記的著者の表現が見られます。しかし、「彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかった」点は、紛れもなくこの審判がなされる第一の理由でありました。彼らは、主の言葉を退け、主の言葉を告げる預言者を退け、偽りの平安を語る預言者や祭司のことばに耳を傾ける罪を犯していたからです。

神殿警備長官をしていた祭司のパシュフルが、そのように民の罪を指摘するエレミヤの説教を聞いていました。彼はエレミヤを逮捕し、鞭(むち)打ちました。そして、ベニヤミン門にある神殿警備の監視所の拘置房に連れてゆき、枷をはめて拘留しました。これは彼にとって都合の悪い神のことばを語る預言者をその権力によって阻止しようとする露骨な弾圧行為でありました。

しかし、地上のいかなる権力も神の言葉を沈黙させることは出来ません。鞭打ちと拘留は、それがエレミヤに属する人々の前で、エレミヤを犯罪者として見せしめにする目的でなされましたので、それはエレミヤにとって非常に苦痛に満ちた仕打ちとなり、恥と屈辱となったに違いありません。エレミヤはその恥辱の体験を、「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」(20章8節)と告白しています。しかし、その体験が預言者を軟弱にしてしまうことはありませんでした。翌朝、エレミヤは釈放されると、勇気を挫かれることなく、祭司のパシュフルの前に立ち、神から語るべく命じられた言葉を堂々と告げています。エレミヤは、神の言葉を鎖と鞭をもって打ち砕こうとした者に対して、神の御名をもって災いが彼らに下されることを語ることにより、人間の権力と神の威力の間の対決に対する最終決定を明らかにしています。

それゆえ、ここでこのことばを語るのは、人間エレミヤではなく、神の使者としての預言者エレミヤです。エレミヤは、ヤハウェがパシュフルに別の名を与えるであろうと告げます。命名は、命名される者に対する支配権の行使を意味します。祭司が預言者を釈放したその瞬間に、こんどは預言者が祭司を神の囚人とします。
パシュフルに与えられた「恐怖が四方から迫る」という名前には、今や、新たな神の怒りとしてこの町と彼自身の上に襲いかかってくるであろうすべての災いを示すものです。

神の腕は、地上のどの権力よりも遙かに広く強いのです。人間の権力が神に対抗しようとするとき、ヤハウェはご自分の権能を現実の力として働かせるために、バビロニアのような大国をさえ意のままに動かすことができます。ここでパシュフルは、神に対抗する地上的権力の代表として登場しています。それゆえ、ここで彼には特別な威嚇の言葉が向けられています。この威嚇の言葉は、なぜ彼が「恐怖が四方から迫る」という災いの名を与えられることになったかを、具体的に説明するものとなっています。パシュフルとその全家族に、バビロンへの強制連行という運命が臨みます。彼は、再び故郷を見ることがないばかりか、異境の地で死に、そこに葬られる、と告げられます。宗教的潔白さを保つ義務を負う祭司にとって、「不浄なる地」、異教の神々の領地に葬られることは、実に恥ずべき、特別な重罰を意味していました。エレミヤが告げた「お前の偽りの預言を聞いた親しい者たちと共に」という最後の理由で、重要なのは、個人ではなく、事柄そのものにありました。これは個人的報復ではなく、神のことばの真理性に係わる事柄でありました。

エレミヤはこの自らに課せられた使命と権威を自覚していましたので、一歩も引き下がることが出来ません。パシュフルも祭司とはいえ、預言の役割を担っていましたので、彼が主の御心に反し真の預言を語る預言者に加えた迫害と民を偽りの道に導いた責任から免れることはありません。ここに下された審きの内容が、彼が担っていたその責任の重大性に見合った厳しいものとなったことは、当然と言えます。主のみことばを軽んじ己の都合のよいように聞くことに対する主の怒りと審判の厳しさを、私たちは自身の問題として聞くことが何より大切です。主は御言葉を軽んじるその軽んじ方にふさわしい審きをパシュフルに下すと語られるように、わたしたちにも同じ警告を語られます。しかし、この災いの警告を真摯に受け止める者には、そこから逃れる道を示すしるしとしての意味をもっています。この「砕かれた壷」の出来事は、そのことをまた私たちに教えてくれています。

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