詩編講解

36.詩編51篇『神よわが内に清い心を創りたまえ』

古代キリスト教会では、この詩は七つの悔い改めの詩編(6,32,38,51,102,130,143)の一つに数えています。この詩篇はその中でも一番重要とされてきました。

この詩篇には、罪が深く認識され、赦しとまことの神との交わりに至る道が示されています。この詩には外面的な苦難の叙述が表面に現れず、そのために却って祈り手の苦悩の深さがにじみ出ています。この詩の表題は、ダビデの作とされています。しかもバト・シェバと通じてその夫ウリヤを殺した罪の責任を問うために預言者ナタンがダビデの下に来たときのものとされていますが、この詩篇には、そのような罪と悔い改めについての明確な手がかりがありませんので、表題どおりダビデの作と見なすことには無理があるように思います。本来、この詩は19節で終わっていたと思われます。追加句と思われる20-21節は、エルサレムの神殿の未来における復興を心にとめているので、もともとは捕囚以前あるいは捕囚期にさかのぼる時に書かれたと思われます。内容的にも19節までとつながりが良くありませんので、テキストの取り扱いとしては19節までにとどめます。

作者は3-5節において、罪の赦しを神に呼び求めています。
この詩人は、罪の苦悩の中から神の憐れみを求めて、神に向かって手を伸ばし祈りました。彼は神の豊かな憐れみについて知らなかったなら、自分の罪の重さにつぶされていたことでしょう。彼がどれほど自分の罪に悩んでいたか、切々と繰り返されている願いがそれを証明しています。

しかし、詩人は自分が犯した罪を具体的に口にしません。それによって現在のしかかっている罪の重荷を軽くしようと考えているからではありません。むしろ彼は自分の罪に、自分の目を釘づけにしています。彼は自分の心の内側からこみ上げてくる罪の苦しみの重圧に打ちのめされ、圧倒されているのです。そのように圧倒されている自分を真剣に見つめることができるのは、彼がそれだけ神に対して真剣であるからです。

彼は自分の罪の大きさを神の御前で思い、量っているのです。罪とは、この詩人にとって、人間が自らの負い目の内に、神の御前に打ち砕かれることにほかならないと認識されています。

詩人は、その罪がどんなに重いかを知ることができるようになったのは、神のみがあらゆるときの頼みとするお方であることを知り、そのことに注目し始めた時であります。

罪とは、神との関係を破るものです。それゆえ、神の赦しなくして神との交わりの回復はあり得ません。ただ神の赦しにより頼まなくては、そのことは不可能であると知った彼の深い内面の叫びがここにあります。

罪を犯した者が自らその罪を拭い去ることはできません。神によって拭い去り、洗い清めてくださることによってのみ、それを拭い去ることができます。それは、罪を犯す主体である人間自身の内側から清めることによってのみ、根本的に解決しうる問題であることを詩人は洞察しています。それをなしうるのは神の恩恵の業以外にありえないので、ただ神に祈り願うほかないのです。詩人は罪の問題をそれほど深く捉えていました。

真の悔い改めの第一歩は、罪の明白な認識から始まります。5節において、詩人は、「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」と告白しています。さらに彼の罪の告白は、6-8節において自分の中で繰り返される罪の根深さに目を向け、その罪を神に告白しています。

詩人は、この告白において、罪とは、神に対して犯すものであるという認識を示しています。罪とは究極の存在である神との関係の中でのみ問われ起こるものであるという認識を詩人が示した時、彼は、人間に対して犯す罪や過ちはどうでも良いかのように考えるようになったのではありません。彼はただ人を救いうるのは神の憐れみだけであると信じていますので、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯しました」(6節)と神のみ前で告白しなければならないのです。

どのような罪であれ、それは究極において神に対して犯すものであるということができます。それゆえ、罪は最終的には倫理的な概念ではなく、宗教的な概念です。人は神に目を注ぐことによって、罪を一段と鋭く認識することができます。

罪とは神に逆らう人間の意志の根本的に倒錯した方向から生み出される果実です。罪がそのように倒錯した心から生れることを発見した詩人は、罪を生み出す人生の謎にさらに目を注ぎます。それは、今日、昨日生じた問題ではなく、母の胎に宿っている時から「わたしは罪のうちにあった」(7節)と告白することによって、罪が人間の生れながらの本質となっている事実に詩人は目を向けています。彼はそうすることによって、だから自分が罪を犯しても仕方がないと弁解しようとしているのではありません。この生れながらの罪性がもたらす罪の厳しい現実、真理を明らかにしようとしているのです。

詩人は、結婚によって罪が生じたなどと言っているのではありません。罪が人間の本質となるほど深く根をおろしてしまっている現実に打ちのめされているのです。この現実を変えることができるのは神しかいません。だから神により頼まざるを得ません。彼は自らの内に深く根ざした罪を認めた上で、神によって罪を洗い清め、雪よりも白くしていただかなければ、自分の罪はなくならないとその罪の深さに絶望し、神を求めているのであります。

12-15節において、詩人の祈りは、神によって新しい心が創り変えられること、即ち、霊による再創造を求める祈りへと転換しています。

罪の赦しは、神がその罪に目を向けないことだけにとどまったとすると、人間は繰り返し犯す罪を根本的に解決したことになりません。むしろ罪が人間の《本性》なっているとすれば、神の新しい《本性》を人間の心に創造し、心を再生する時ののみ、人間はその罪を根本から克服することができます。それは神から賜る確かな霊の力によってのみなされます。エレミヤ書31章31節以下やエゼキエル書11章17節以下において、聖霊によってなされる心の再生による転換が述べられていますが、詩人は、本質においてそれと同じ事を述べています。パウロは、それをローマ書2章29節で「霊による心の割礼」として述べています。

人間が道徳的・倫理的に正しい業を行えるのは、最終的には人間の業ではなく、神の恩恵による聖霊における再生と聖化の力に支えられる時です。人はその時初めて罪を犯さず神に対して正しく生きることができます。それによって自由に新しい喜びの生活を送ることが可能となります。

それゆえ、わたしたちの祈りは、罪の赦しを求めることだけにとどまっていたのでは不十分です。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」(12節)という祈りを必要としています。

この祈りは罪から解放されて自分だけが喜べばよいというための祈りではありません。同じく罪に苦しんでいる他者に、そのような主にある救いの道を教えることができるようになるための祈りであります(15節)。聖霊による新生は、神を喜び生きる人に変えます。それは自己満足による享楽的な信仰に留め置くものではなく、神との関係において見聞きしたことを、人に教え導くためのものであることが告白されています(使徒4:20)。

そして、彼の祈りは、16-19節において、霊的礼拝への誓いへと昇華されてゆきます。

彼が求めるのは単に清められた高い道徳的人間になることではありません。彼が求めるのはどこまでも神との交わりです。神との生命的な交わりに生きることでありました。聖霊による新生の恵みに与っても、死んでしまえば、信仰によって働き、神の義を褒めたたえて生きることができません。

それゆえ、ここで彼が流血の災いから救ってくださいと祈り願うのは、命が惜しいからではありません。それによって神の義を讃美して生きる機会を永遠に失うことを恐れたからです。神から送られた新しい生命とその使命を自覚したとき、そのために命が保たれることを願うことは、当然のこととして彼は受け止めています。

生命は霊的礼拝を捧げるために与えられている、これが罪の赦しを求めた詩人の祈りでありました。このような目を開かれた詩人には、神礼拝に捧げるものを取引に用いるようなことはできません。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」(19節)であると詩人は告白します。奉げ物は、そのような心で奉げられた時にのみ、感謝の献身としての意味を持つことができます。

詩人は全存在を賭け、感謝と喜びを表す霊的礼拝を奉げたいと願い、誓います。わたしたちもまた、この詩人のように、罪の赦しを礼拝のために求め、霊的礼拝の喜びに生きるものとなりましょう。

旧約聖書講解