エレミヤ書講解

2.エレミヤ書1章4-10節『エレミヤの召命』

エレミヤ書の第1章は、預言者としてのエレミヤに決定的意義を持つことになった神との出会いと、その時の神の言葉を記しています。エレミヤは、後になっても、繰り返しここに立ち戻っています。エレミヤが預言者として召命を受けたヨシヤ王の第13年は、エレミヤの25才頃の時であったと考えられます。しかし、この章に語られている一連の体験は一度に起こったものである、とは言われていません。4-10節の召命のことばを見ても、幾つかの区切りがあり、それぞれの背後にある体験は比較的長期にわたっているものと思われます。

神がエレミヤの生涯に介入される5節の召命のことばは、人間としてのエレミヤの一生を、もっとも深いところに引き入れます。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた」という神のことばは、彼の存在の根源にまで立ち戻り、エレミヤの地上の生涯が永遠の神の御心に深く根ざしていることを示します。こういった事態への洞察は人間の思考からは生まれません。それは、神の啓示であり、エレミヤに不意に臨んだ「神のことば」であって、彼を圧倒すると同時に、彼を高めるものとなります。イザヤの場合、神との出会いの感銘の中で、神の聖の前に人間はくずおれて無に等しい、との自覚を生みました。エレミヤはこの召命のことばによって、自分自身は、もとより空しいものであって、自分のものでもなく、神による被造物として神にかたち造られたものであり、それゆえに神によってなるべきものへと「あらかじめ定められた」存在であることを認識しました。エレミヤは、ここで、創造と選びという神の不思議な業の中に取り囲まれている自分を知りました。この預言者の生涯に対する非合理的な神の介入には神のラチオ(合理性)があります。そしてこの神のラチオが、神の永遠から見た意味と支えとをエレミヤの生涯に与えるのであります。この歴史に現れた偉大な信仰の戦士はみな、この「予定」の信仰によって、神の永遠の恵みに支えられていると自覚してきたのであります。神が「あらかじめ知る」この永遠の選びこそ、キリスト者の力の源泉であり、かつ謙遜の源泉でもあるのです。

この選びがエレミヤに何を意味するかは、「母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」という、5節後半のことばにはっきりと語られています。「聖別」ということばは、元来、祭儀に由来する用語で、「罪のないこと」を意味するのではなく、むしろ、日常生活にまつわる諸関係から切断され、神との特別な関係に入れられることを意味しています。ここでは、神からの委託を受けて、実際に使命を果たし、業をなす、という動的な意味において言われています。こうして召命を受けたエレミヤは、はじめから迫害や攻撃に対して防備されている、というわけではありません。むしろ、絶えず繰り返し神からの個人的な助けを必要とする、というまさにそのことの中に、エレミヤの任務の悲劇が潜んでいました。そしてこの悲劇性の故に、わたしたちはエレミヤという人物に人間的な身近さを覚え、彼はわたしたちの苦難の同伴者となるのであります。

神がエレミヤにあらかじめ備えられた任務は、諸国民に対する預言者になることです。アッシリアの属国となっていたユダの存立とその運命とは、ユーフラテス及びナイル両河畔の大帝国の歴史と密接に結びついていました。このことは必然的に、自国民に向けられた預言者のことばの中にもこれらの諸国への言及が組み込まれることになりました。しかし、このように広く普遍的な《諸国民への預言》という任務が預言者に課せられていたことの深い理由は、全世界の主としての神が歴史を支配する最高の主権者であられる、ということの事実の中にあります。だからエレミヤは、神からその任務に召されるその瞬間に、神の側に立って、世界のすべての民族と対峙するものとなります。

エレミヤは、この神の召命に素直に従ったわけでありません。彼にはこの召命に応じられる自信をまったく持てなかったからです。しかし、自信に満ちて自己評価を下すことのできない真実の人だけが神の声を聞くことを許されます。エレミヤが預言者として神からの召命を受けたとき、エレミヤ自身の思いはまったく別の方向に向かっていました。だから、神のことばは、彼には負いきれないほどの重荷としてのしかかっていました。苦悩の呻きが胸を突き、神のこの委託から逃れたいというのが、エレミヤの最初の反応でありました。この点でエレミヤは、偉大な預言者モーセに似ています(出エジプト4:10)。

エレミヤは、恐れず公明正大に神のことばを告げねばならない預言者の使命の難しさを知っていました。彼はまた預言者の運命についてよく知っておりました。それ故、あまりにも不意に彼を襲った神からの要請に対して尻込みしたのは、必ずしも若さ故というわけではありません。エレミヤが恐れたのは、神からの委託そのものであり、預言者としての職務それ自体に対してでありました。人間的に見れば、エレミヤの躊躇逡巡した態度は当然至極と思われます。エレミヤは多感で一人の弱い人間でありました。彼には、エリヤのような烈火の如き戦闘的性格も、イザヤのような断固とした勇気をもって自ら進んで神の命令に従う性格もありません。むしろ、エレミヤには、預言者としての成功を約束するものは、まず殆ど欠けていました。彼には他人の前での演説の経験もありません。むしろ他人を恐れ、自らは遠慮していることの方を好む若者として、彼のことばにはそれ相応の社会的地位に基づく権威も名望も欠けていました。親の家の下で保護を受けて安穏と暮らしていた生活から、戦いへと呼び出すことになるこの預言者の任務に対して、エレミヤが何の自信も持てなかったとしても、それは当然でありました。それゆえ、エレミヤにとってその職務は、あまりにも過酷なものと思われました。後になってエレミヤは、次のように述べています。

わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく
御手に捕らえられ、独りで座っていました。
あなたはわたしを憤りで満たされました。(15章17節)

預言者としての職務の重荷の故に、エレミヤはまったく孤独となりました。この孤独こそ、彼の試練と嘆きを絶えず生む原因となりました。

しかし、まさにこの点で、エレミヤという預言者の姿は、神がどのようにしてこのような内向的な人間を立て、造り変えることの出来るお方であるかを示す、生きた証となります。神は一見不適切と思われるものをも、ご自分の意思を遂行する道具となし、その者を神の民の歴史のもっとも困難な時期のために選び出されたのであります。そして神は、この召命のときにも、後においても、エレミヤの嘆きを退けられます。

若者にすぎないと言ってはならない。
わたしがあなたを、だれのところへ
遣わそうとも、行って
わたしが命じることをすべて語れ。(1章7節)

この神の言葉には、躊躇うエレミヤに対する神の働きかけが示されています。

神の論理は、人間の効率の論理や合目的的論理とは異なります。そこにはいかなる抗弁も退ける決然さがあります。この神に語りかけようとせず、ただ神から逃れようとするエレミヤに、「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ」と神は決然と語り、そして単純に、ご自分の神的権威の前に、またその重圧の下に立たせるのであります。この重圧の下では、いかなる人間的熟慮も抗弁も挫かれます。エレミヤには聴従する以外にいかなる可能性も残されていません。こうして神は、エレミヤを強いて服従させ、しかも服従を通して不安を克服させることによって、彼の抵抗を打ち砕かれるのであります。エレミヤは服従を通してものおじから解放され、自我からの自由、人間からの自由を開かれるのであります。つまり、神の意志に服従することにおいて、預言者は待ち受けるあらゆる人間的困難、不可能と感じる現実を相対化できる思考を獲得するのであります。この服従という過程を通して、神の予定・摂理の中に隠されていたものが、顕在化し、この歴史の中で具現していくのであります。

7節の神の言葉には、預言者職が持つ二つの使命が明確に語られています。第一に、預言者は自分が行きたいところに行くのではなく、主が遣わされるところへ、どこであろうと、そこへ行くことです。「だれのところへ、遣わそうとも、行って」という言葉においてそのことが明らかにされています。第二は、「わたしが命じることをすべて語れ。」という主の意志に従うことです。自分の考えでなく、主が命じられることを語ることにおいて、預言者は真に神の使者たりえます。神の命令に従うことによって、彼は神の全権委任を受けた使者となることができますし、彼に委ねられた言葉には信仰と服従とを人々に得させる力があります。神はそのようにご自身の権威と力を行使されるからです。

しかし、神は預言者に服従だけを求めるのではなく、約束を与えておられます。「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と、救済の約束を与えておられます。神は、預言者が不安を抱いても、彼に直面する危険を故意に隠すということをなさいません。「あなたと共にいて必ず救い出す」という表現には、明らかに、そこには生死に関わる問題があるということが含まれています。しかし神は、彼に臨在と助けとを約束し、それによって人間を麻痺させる恐怖を取り除かれるのです。不安におののく孤独な人間エレミヤには、いつも彼と共にいると約束する神がいます。そして、この約束は、孤独と不安の中で神の救いに与る人間すべてに与えられています。彼はこの苦悩と救いの体験において、孤独に生きるすべての者を励ます預言者として立っています。

「わたしが命じることをすべて語れ」(7節)といわれる「主は手を伸ばして、わたしの口に触れ」て、語るべき言葉を与えられるお方です。「口に触れる」という象徴的な行為は、神はご自分のことばを預言者の口に入れることを示しています。預言者は神のことばを告知すべく召されています。それゆえ、恐れる心や懐疑に襲われたとき、預言者に力と支えを与えるのは、「神のことばを告知する」ということです。預言者が神のことばを語るために受ける強制は、実は彼の召命の大いなる約束でもあります。ここにのみ預言者の権威の根拠があり、ここにこそ神が預言者に付与する全権能があります。神のことばは「燃え盛る火のように、岩を砕く鎚のように」(23:29)働く力であって、歴史を形成し未来を成就せしめるものだからです。

エレミヤに与えられた預言者としての使命は、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるため」(10節)です。彼が取り次ぐ神のことばは、災いと救いをもたらします。この語は、エレミヤ書の主要テーマを語っています。それはどのようになされるか24章において述べられています。まさに、毀(こぼ)つことによって建て、滅亡の真っ直中で新たな生を創造される神の恵みは審判の中で働くのだ、という点に神の奇跡があります。そしてこの究極的でもっとも深い神の摂理の秘儀の故に、エレミヤ自身は神の不思議な力の証人として、神に選ばれたのであります。しかしその使命ゆえに、彼の苦悩が続きます。その苦悩を、神はまたご自身のこととしてまた引き受けられているのです。壊しまた建てるという苦悩の中から救う神を指し示すために立てられた預言者エレミヤは、自らの苦悩を通して、その弱さの中でそれを指し示す働きを担わされていたからです。

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