イザヤ書講解

37.イザヤ書42章18-25節『見えない目、聞こえない耳よ、聞け』

わたしたちの人生において、先行きの見えない行きづまりを感じることがばしば起こります。それは教会の営みにおいても例外ではありません。そこでこうすべきだ、ああすべきだ、いやこうしたから自分たちは行き詰まったのだ、こうすべきであったのに、そのように歩まなかったことに原因があるという認識に至ることがあります。歴史というのはそのような問い、探求の中から、現在のあり方を考え、未来に向かって歩みだすために大きな意味を与えることがあります。その意味でいうなら、人が行き詰まりを経験することは悪いことであるということはできません。もちろんその失敗から学び、未来に向かって、あるべき真実に向かって生きようとの思いが与えられないと、その経験は生きてきません。しかし失敗から学ぶ作業は、失敗をした自己の過去の歴史を偽らずに直視することなくしてありえません。だからそれ自体大きな勇気がいります。ましてや、その失敗から立ちあがれないでいる者や、それを直視しようとしていないものに向かって、他のものがその現実を見るように促すことは、いっそう困難です。

この御言葉は、そのような問題について大きな示唆を与えてくれます。しかし、この御言葉は、わたしたちの人生の問題を直接語っているわけではありません。あくまでも神に選ばれた民イスラエルの信仰の問題を語っています。捕囚体験のもつ信仰の意味です。彼らにとって神はどういう方か、その捕囚体験が、彼らの御言葉に聞く信仰とどのような関わりをもっていたのか、神はこの体験においてどのような働きをしておられるのかが、ここで問題になっています。

18節で、「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。」と呼びかけられているのは、捕囚となったイスラエルです。呼びかけているのは、主です。イスラエルのこれまでの歩みを「耳の聞こえない人」「目の見えない人」としてのそれであったと、主なる神はイスラエルに向かって語っています。

しかし主は、そのイスラエルのことを、「わたしの僕」と呼んでいます。また「わたしが遣わす者」と呼んでいます。イスラエルは神の御旨を諸国に伝える使命を与えられた光栄ある僕であり、そのようなものとして主に遣わされた存在であることがここで明らかにされています。しかし、現在においても、過去においても、彼らは、「目の見えない者」「耳の聞えない者」としてしか歩まなかった、その罪がここで明らかにされています。このような言葉で語りだされる主の呼びかけの言葉は、一見非常に厳しい告発の響きを感じさせますが、これらの言葉においてこだましているのは、「隠れた約束の響き」です。

第二イザヤは、この主の呼びかけの言葉において、かつてアモツの子イザヤに向けて語られた主の約束を思い起こすように促しています。

主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」(イザヤ書6章9-10節)

このときの約束の通り、イスラエルはイザヤを通して語られる主の勧告と裁きを真剣に聞くことなく、自ら耳をふさぎ、主の審判の言葉と真剣に向いあおうとしませんでした。まさしくイスラエルの過去は、「目の見えない者」「耳の聞えない者」としての歩みでした。そして現在もその姿勢に根本的な変化が見られません。彼らは何も聞かなかったのではありません。何も見なかったのでもありません。だから20節において、「多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。」といわれています。多くのことを見るよう、「しるし」を見る機会が多く与えられたというのです。イザヤの子の名において、またイザヤの行動において、神は様々なしるしをイスラエルに示されました。しかし、それらの名や行為が示す意味を理解し、見ようとしませんでした。そして現実に、それらが指し示したとおり裁きが行われた現実を見てきたのですが、それさえ何も見えないかのように見ようとしてこなかった事実がここに明らかにされています。そして、耳は開いていたのですが、やはりその耳で、預言者の語る言葉に耳を塞(ふさ)ぎ、何も聞こえないように歩んできた事実が明らかにされています。

22節は、その結果もたらされた現実を明らかにしています。第二イザヤは捕囚の民の置かれた境遇が厳しかったことを一貫して明らかにしています。しかし、それでもなぜ自分たちがそのような厳しい境遇に置かれることになったのか、そこにいたる事実に目を向け、その原因を突き止め、その現実から転換を図ろうとするものが依然として表れない現実を、23節の言葉において明らかにしています。

現在の悲惨を直視するのは、「後の日のため」です。後の日が、今よりも厳しい裁きしかないのか、それとも希望と喜びに満ちる日へと転換するのか、すべては現在と過去の悲惨がどこから来たのかその現実を見ることと関係しています。

今なおその事実に目を向けることのできない捕囚の民に向かって、第二イザヤは、「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。」と問い、「それは主ではないか」と答えています。しかし彼は、ただ彼らの罪を上から見下すように告発するものとしてこれらの言葉を語っているのではありません。彼は同じ捕囚を経験したものとして、その苦しみを共にし、その現実を自分自身の問題として語っているのです。「この方にわたしたちも罪を犯した。」という言葉は、捕囚の民の罪を自らのこととして共に告白しようとする第二イザヤ信仰がしめされています。そのように罪を連帯して引き受けた上で、彼は、

彼らは主の道に歩もうとせず
その教えに聞き従おうとしなかった。

と語るのです。現在の悲惨の究極の原因は、略奪する者の残虐さにあるのでもなく、それが今なお継続していることでもありません。彼らを用いて裁かれた主にあります。そして、その主の裁きの警告に耳を傾けて聞くことなく、耳を塞ぎ続け、目を塞いでみようとしなかったイスラエル自身にあります。

「耳の聞こえない人」「目の見えない人」としてのイスラエルに、「主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。」(25節)と告げています。しかし「その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」と相変わらず、「耳の聞こえない人」「目の見えない人」としてのイスラエルとしての姿勢に変化のない現実が語られています。

決して悔い改めようとしない、実に頑(かたく)ななイスラエルに救いの希望がないかというと、実はこの御言葉に一つの救いの可能性が示されています。この悲惨の究極の原因が、主ご自身と主の声に耳を傾け、主のしるしに目を開いてみようとしなかったイスラエルとにあるという事実の中に、希望ある未来への転換の可能性が示されています。なぜそこに希望ある可能性が示されていると見ることができるのでしょうか。

それは、現在の悲惨の究極の原因が主にある限り、この悲惨から希望ある未来に転換を図ることができる究極の可能性も主ご自身の中にあることが、ここに暗示されているからです。そして、その主から選ばれ、「わたしの僕」と呼ばれているイスラエルが、今は、「耳の聞こえない人」「目の見えない人」として相変わらず歩んでいるが、もし本当に主に立ち帰り、主の言葉に耳を傾けて耳を聞き、主が開かれる現実に目をやり、その未来に委ねて生きる者へと変わるとき、その未来には希望があることがこれらの言葉に暗示されているからです。その暗示は、次の43章において明らかにされていきます。この「耳の聞こえない人」「目の見えない人」としてのイスラエルは、「わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。」(イザヤ書40章27節)といって、決して主の救いを見ようとしませんでしたが、主は、このイスラエルを「わたしの僕」として愛し続けておられます。だから、彼らに対する呼びかけを主はやめられないのです。

耳の聞こえない人よ、聞け。
目の見えない人よ、よく見よ。

この主の呼びかけの言葉こそ、イスラエルに対する主の愛の証です。主は、耳を傾けないで現在苦しみ悲惨な状況の中にとどまる者に、今も同じように、「わたしの僕」として愛し、同じ呼びかけの言葉を持って語りかけてくださっています。そしてこの呼びかけに、耳を開いて聞き、主の示される希望ある救いに目をあけて見るところから希望ある転換の道が開かれます。

旧約聖書講解