エゼキエル書講解

22.エゼキエル書20章39―44節『新たな礼拝』

今日の御言葉は、神の恵みの支配の中で起こる新たな献身の道、新たな神礼拝への招きについて語っています。38節において、神に逆らう反逆者を分離する裁きが行われることが述べられていますが、ここでは神への新たな献身の道に至るため、罪ある過去ときっぱりと決別し、神の恵みを待つことの必要が強調されています。

主は、ご自身の言葉に聞くことを第一としない、あいまいな態度を取り続ける者に向かって、「おのおの自分の偶像のもとに行き、それに仕えよ」と厳しく突き放しています。主に聞こうとしない者は、偶像礼拝に赴き、異邦人と等しい者になった方がましである、という逆説的な批判がなされています。中途半端な主への態度は、神の恵みの前を通り過ぎる者で、神の恵みの導きにも耳を閉ざしている者でしかありません。その様な者に向かっては、イスラエルの家を導く主なる神は、最終的な絶縁しか残されていないことを明らかにされます。

しかし、この厳しい審判が語られ、聞かれることによって、悔い改めへの道が開かれます。「その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる。」と実に慰めに満ちた約束が語られています。

新たなイスラエルの創設へと向かうゆるぎない神の意思は、その呼びかけを拒んでもなお、その者を立ち帰らせる目的に達するまで貫徹されるのです。ここには、突き刺すような鋭い有罪判決に併せて、神の恵みの力によって形づくられる、新たな未来への慈しみ深い誘いが一緒に語られています。

神は、再び異邦の地に離散したご自分の民を、約束の地に帰されます。そこでの民の新たな献身、礼拝がどのように行われるか、40節において明らかにされています。「わたしの聖なる山、イスラエルの高い山」で守られることになる真実な神礼拝が、28節の「その地」で行われた高い丘や茂った木の前で行われた偶像への供え物をもって行われた偽りの礼拝と対比されています。

エゼキエルは、主の言葉として語られるこのような根源的な批判において、異邦の地における神礼拝が自分勝手な考えから出たものでしかないことを明らかにしています。

真実の神礼拝は、神ご自身が選ばれ、聖とされたところであり、それはあらゆる時代に渡って礼拝されるべき場所です。それはイスラエルの高い山においてのみ、神に喜ばれる供え物をささげることができる、これがエゼキエルのメッセージです。

40章以下に詳しく記されているシオンの回復と新生は、離散の民が異邦の諸国民と国々の中から導き出され、そこにイスラエルの神が、その民の聖なる神として、全ての民の前に現れられるという約束と分かちがたく結びついて語られています。

離散の民(ディアスポラ)は、そこで、神の救いの計画が民の罪によって破られることがなく、最後には、神ご自身の意志と力でその目標に到達し、それとともにこの神の御名に加えられた嘲りは、ことごとく無意味なものとして反駁されるのを見るようになります。

そしてイスラエル自身は、約束の地に神の恵みの導きによって帰ることができた時、「お前たちはわたしが主であることを知るようになる」(38、42節)まで成長することが明らかにされています。神の厳しさと同じく(38節)、憐れみもイスラエルに新たな神の秘密を開示する事になります(42節)。

出エジプトにおける最初の救いの恵み(6節)と同じ言葉で、先祖に約束した土地を授与するとの新たな誓いを持って導き入れるとの約束は、決して滅びることのない神の信実に基づくものです。

罪深い、主に背く歩みを止めさせ、神を神として認識させるのは、この神の不変の愛の力です。この神の不変の愛だけが、罪に満ちた人間を立ち帰らせる究極の力です。真の神に背いている間、人間は、自分が犯している罪についての認識も鈍くなっています。しかし、背いている自分をも、変わりなく愛してくれる神が共にいます事を知る時、その愛の対象とされている人間は、本当に自分は罪深き道を歩んでいたと認識できるようになります。そのように歩んでいた古き自己を嫌悪する事ができるように変えられます(43節)。神は、ご自分が選んだ民を立ち帰らせ、交わりを回復させようとする不変の意思を持っておられます。その神の意志こそが民を新たに創造的に形成するのです。主の民が主の民として相応しく形成されるのは、この神の不変の意思によります。ここにわたしたちの希望と慰めがあります。

「お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく」(44節)という言葉は、そうしたことに神は影響されることも、ご自身の力が弱められることもないことを明らかにする意味で用いられています。神が神としてこの歴史に介入し導きを与えるのは、「わが名のゆえに」です。神はその御名の栄光のゆえに、変わらない心で、弱く貧しいイスラエルを導かれるのです。なぜなら、この民を、わが名をもって選ばれたからです。私たちもまた、主イエスの名によって救いを与えられ、主の民の一員とされたものです。

「わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と主なる神は言われます。この最後の言葉を深く噛みしめることが大切です。神が神として、その名のゆえに、わたしたちの救いの為に働きかけてくださっている事を知る信仰の認識ができるようになるとき、わたしたちは初めて、本当に、創造主であり、救い主であられる真の神を認識できるようになります。真の、現実的な信仰の神認識は、このようなダイナミックな神の働きを、その御名のゆえに行われている神を知ることなしには与えられないのです。そのことを知ることが大切です。

旧約聖書講解