イザヤ書講解

51.イザヤ書50章4-9節『主の言葉は朝ごとに呼び覚まし』

この箇所は、第三の僕の歌(第一は42:1-4、第二は49:1-6、第四は52:13-53:12)と呼ばれています。この僕の歌は、第二イザヤ自身の体験を背景にして語られています。第二イザヤの体験とは何であったのか、それは、彼の召命のときの言葉が明らかにしています。彼は若き日に預言者として主から召されたとき、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(40:1)という天上で呼びかける声を聞きました。それは、「疲れた者に力を与える」(40:29)ために召される仕事でありました。しかし、彼が語らねばならない人たちは、長い捕囚生活に疲れ果て、彼の語る言葉に素直に喜んで受け入れるような人まれでした。むしろ、現状を受け入れ神の約束に背を向けて生きている、そのような人の方が多かったのです。彼が語ることによって味わった実際の体験はそのようなものでした。神から与えられた使命とその約束のすばらしさとは裏腹に、彼の聴衆はそのすばらしい神の約束を素直に信じようとしない人たちがいました。だからその召命を受けたとき、彼はそのような素直でない、将来に対する懐疑を持っている民を知っていましたので、「何と呼びかけたらよいのか」(40:6)という戸惑いを正直に言い表しています。御言葉を取り次ぎ語るということは、いつの時代においても決して容易なことではありません。ましてや時代の向かう方向に対して希望をもてなくなっている人、導きを与えてくれる神に疑いの思いを持ち始めている人に向かって語ることは、いっそう容易なことではありません。だからある旧約聖書の研究者でありすぐれた説教者である大串元亮先生はこういっています。「これは力のいる仕事なのです。自分自身の疲れが癒されていなければ、人を慰めることは出来ません。人を慰めるとは、自分が神から慰められた慰めをもって、苦難の中にいる人を慰めることなのです」と。イザヤ書50章4節の次の言葉は、第二イザヤが常に味わっている深い喜び、慰めの体験を語っています。主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし弟子として聞き従うようにしてくださる。神は、第二イザヤを預言者として召し、その後は自分で勝手にしなさい、といって放り出されたのではありません。彼の口に舌を与え、疲れた人を励ますに必要な言葉を語らせるには、まずその任務につくその人自身をまず励まさねばならないことを主ご自身が一番よく知っておられるのです。だから、「疲れた人を励ますように」励ましを受けたのは、第二イザヤ自身です。それは、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし」といわれるように、「いつも」与えられる恵みです。まるで天からのマナが毎朝与えられるようにして、主の御言葉が「朝ごとに」与えられたというのです。預言者がそうであれば、主の御言葉に仕える者は皆、そのような恵みの言葉を自ら受ける者となるのでなければ、疲れた人、飢えている人を慰め励ますことが出来ないことを深く思わされます。しかし、それは奇跡的な方法で「耳を呼び覚ます」ということを意味しません。それは、朝ごとに、そのように主の導きを期待し、祈り求める者に主が必ずそのように取り計らってくださる恵みです。その信仰を持って近づく者に、そのように取り図られる主を知る体験を下に第二イザヤは、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」と語っているのではないでしょうか。人を慰めることの難しさにいつも御言葉に仕える者は経験しています。自分の力で何とかしようと思っても、なかなうまく行きません。しかし、自分の言葉、自分の力が問題なのではないのです。御言葉に仕える、という言葉が表わしているように、問題なのは、御言葉の力、それを与えたもう神の力への信頼です。だから、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる」という喜びの体験を、御言葉に仕える者であろうがなかろうが、信仰者はみんな持つのでなければ、御言葉の力によって立ち上がり、未来に向かって希望を持って歩みだすということが出来ません。人の心は素直でありませんから、御言葉を一度は喜んで聞くには聞きますが、すぐに「しかし」といって、現状に対する困難を理由にそれを否定するような言動に転じてしまいやすいのです。その意味で5節の次の言葉は、非常に大切な御言葉に聞く姿勢を教えてくれます。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。旧約聖書の信仰によると、わたしたちの耳を開かれるのは主です。主は私たちの耳をいつも開こうとしておられますし、実際開くことの出来るお方です。しかし、現実を見て、その言葉から遠ざかり、現実を避けるのは、わたしたち自身の心です。「わたしは逆らわず。退かなかった。」この言葉は、6節に語られる次のような現状に対して勿論語られていますが、それ以上に、その現状に対して、主に逆らわず、主の御言葉に従って、そこから退かなかったという意味が含まれています。打とうとする者には背中をまかせひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。こういう苦難を彼はなぜ経験したのでしょう。それは、バビロンの地でその国を滅ぼすペルシャのキュロスを「主が油を注がれた人」(イザヤ書45章1節)と公然と預言したことと深く関わっているはずです。そのような言葉を述べる者の存在は、彼らの支配者バビロンにおいて許されてよい言葉とは見なされなかったでしょうし、捕囚の民の側でも、とりわけ、バビロンでそれなりに裕福な生活をし、もはやシオンに帰ることを断念して生きていた人たちにとっても、異国の支配者を刺激し自分たちの平和を乱すものとして、語って欲しくない言葉と思われたかもしれません。だからこのようなことを語る預言者をそのいずれもが迫害するという事態がこのような形で起こったということは十分に予想できます。しかし、主の導きの確かさの核心は、いつも彼自身が「朝ごとに」聞く生活がないと現実には不可能です。幸い彼にはその生活がありました。迫害に耐えうる強い信仰というのは、ある日突然与えられるものでも、育つものでもありません。「朝ごとに耳を呼び覚ます」主の言葉を聞いていないと、そのような信仰は、現実には育ちません。第二イザヤには、次のような核心が与えられていました(7,8節a)。主なる神が助けてくださるからわたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っているわたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。主の言葉の真実を信じるということと、現実の厳しさを前にもたじろがないということは、分離できません。それを分離すれば、信仰は二元論になります。主はどの様な現実も変えうる方であり、それを支配する方であるという確かさは、50章2節で明らかにされている通りです。それは主に見捨てられたと考えて、主を告発するイスラエルにむけて語られた主の言葉です。彼らは「叱咤すれば海は干上がらせる」主を見失っていました。しかし、第二イザヤは、神が今も御手をのばし、助けてくださると信じていたので、「主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。」ということが出来たのです。彼は迫害のさなか、「顔を固い石のようにして」じっと耐え忍びますが、「わたしが辱められることはない」といって、その辱めが辱めとして終わるのではなく、そのかなたには、主の救いがあるという核心を述べています。その救いは、「わたしの正しさを認める方は近くにいます」という言葉に表わされているように、現在においてすでに与えられています。信仰の戦いというのは、わたしの戦いとして個別的です。しかし、それは本質的に自分を召してくださった主ご自身のものです。だから第二イザヤは、8節において、「誰が」と問います。その答は、主以外にないという核心に基づいて、その信仰に共に立つよう、「われわれは共に立とう」と預言者は促しています。そして次の「誰が」という問いは、主と逆らって、わたしを訴え、戦いを挑み成功するものが果たしてあるか、という挑戦的な問いです。彼の中での答は、明確な「否」です。なぜなら主が「近くにいまし」(8節)「主なる神が助けてくださるから」誰も彼を罪に定めて、裁くことが出来ない、というのです(9節)。反対に裁かれ、滅びを経験するのは彼らであると、次のように述べています。見よ、彼らはすべて衣のように朽ちしみに食い尽くされるであろう。かつてエレミヤは、「あなたが買って腰に締めたあの帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい。」(エレミヤ13:14)という主の言葉を聞き、多くの月日がたった後、帯を取りに行き帯を取り出したところ、その帯びは腐り、全く役に立たなくなっていた、といわれます。それは、主の言葉に聞き従わず、他の神々に従って歩むユダとエルサレム傲慢の罪に対する裁きにしるしとして語られていました。それはバビロン捕囚を指し示す出来事でありましたが、この第三の僕の歌では、今度はそのような滅びを味わうのは、バビロン自身であり、この主の言葉に逆らう者の自身の経験として語られています。このように現実を切り開き、現状を逆転されるのは主ご自身の働きによります。しかし、その恵みは、朝ごとにわたしの耳を呼び覚ましてくださる主の御言葉に聞き、苦難の中でも、その言葉の導きを信じる者に与えられるものです。この御言葉に「われわれは共に立とう」という第二イザヤの呼びかけを聞くことが、わたしたちに求められています。

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