アモス書講解

20.アモス書8:9-12『主の言葉を聞けぬ飢饉』

ここには「終わりの日」(主の日)に関する預言が記されています。9-10節において、それは、暗黒であり、あらゆる希望を失わせる、「苦悩に満ちた日」であると語られています。しかし、11-12節においてはその苦悩はもっと深い内面に関する事柄であると述べられています。それは、パンに飢えることでも、水に渇くことでもない、主の言葉を聞くことのできぬ、飢えと渇きであるといわれています。この恐るべき出来事が、主の言葉を最後まで拒んだ民に下される主の怒りの審判として起こるといわれています。それが「主の日」として語られていることの意味を、この預言を聞く者は生きている間に悟り、悔い改めの実を結ばねばならないことが述べられています。ここには慰めになる言葉は一つもありません。しかし、裏を返せば、主の言葉を退けている者に、慰めを語ることが出来ない現実のあることを知ることこそ重要です。そのことに目覚める者には、この言葉は福音となります。

アモスはこの裏面にある真理を伝えたかったに違いありません。それを人に悟ってほしいと祈り願ったに違いありません。アモスは5章6節において「主を求めよ、そして生きよ」と語っています。そして、14-15節において、

「善を求めよ、悪を求めるな
お前たちが生きることができるために。
そうすれば、お前たちが言うように
万軍の神なる主は
お前たちと共にいてくださるだろう。
悪を憎み、善を愛せよ
また、町の門で正義を貫け。
あるいは、万軍の神なる主が
ヨセフの残りの者を
憐れんでくださることもあろう。

と告げています。

アモスは徹底した主の審判を語る預言者でありましたが、これらの言葉に、彼がホセアと同じ民への愛に生きた預言者であったことが示されています。しかし、その深い愛にもかかわらず、彼が厳しい裁きを語らねばならない、イスラエルの罪の現実があっことを見逃してはなりません。これらの主の日の裁きに関する預言は、イスラエルの罪がその審きを如何に不可避にしているかを物語っています。

「わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」という言葉は、「主の日」(終わりの日)に訪れる破局の特徴を示しています。「主の日は闇であって、光ではない」(5章20節)。その実現を、主の言葉として告げられていることが重要です。それが自然現象としての日食として起こるのか、同じような現象が「主の日」の審判に際して、神の奇跡として起こるのか、預言者は何も語っていません。預言者は、ただ審きがその様な形で到来すること、そして、神がこの審きの執行者となられること、神はあらゆる力に命じてこのことを行うことが出来るということだけが告げられています。そして、福音書記者は、神の独り子の死に伴う出来事を描写するのに、これと似た表現を用いています(ルカ23:44-45)。

主イエスの十字架は、主に背いている人間の贖罪死であるなら、その死の出来事の中に大地の暗黒を告げる言葉は、罪の下にある人間の最後の悲惨さを想起させる意味をもっています。主の十字架に、わたしたちの神に背いていきる現在の生の最後、あるいは主に背いて生きていた過去の生の悲惨さを思い、その罪の支払うべき犠牲の大きさを知らされます。預言者アモスは、今、その先駆者としてそのことを告げようとしています。

主の言葉に聞かず、主の正義と公義に生きない民の奉げる礼拝は、すべて利己的な偶像崇拝でしかない。その祭りは、主の日には悲しみに、喜びの歌は嘆きの歌に変わります。神が審きを始められるなら、喜びは嘆きに、楽しい収穫と感謝の祭りは、重苦しい祭儀へと変わります。喜ばしい祭りの歌と歓呼の叫びに変わって、沈痛な挽歌の調べが流れます。

喪に服する時、山羊やらくだの毛で作られた「粗布」を身にまとい、「髪の毛をそる」習慣がありました。ここには、その習慣から来た喪に服する嘆きの姿が描写されています。きらびやかな祭りの衣装は喪服に変わり、髪は悲しみを表すためにそられます。

そして、神の審判として訪れる破局の恐ろしさは、人間の最も楽しみとするものを奪う形で表されます。「独り子」が失われることが告げられています。独り子が亡くなることは、単に地上で最も愛しい者を葬らねばならないという悲しみを意味するだけではありません。一族の血統と財産は長子が継ぐことになっていましたから、一族の血統の継続への希望がなくなり、それが葬り去られたことを意味していました。人の生きる希望と楽しみのすべてが一瞬にして失われることが、「その日」の特質として語られています。だから、「その日」は、これ以上残酷な日が考えられないほどに「不幸な日」なのです。

ここには、人間生活のあらゆる喜びが失われ、転倒していく様が描かれています。恵みではなく呪いを表される、神の選びの民に対する逆説的な行動が語られています。ここで神は、無よりすべてを創造する全能の神ではなく、人間の希望として与えられた恵みをすべて奪う全能の破壊者として立ち顕れ、その審きは人間のあらゆる希望を打ち砕くものとして表わされています。これらの言葉は、この神とその言葉が人間の祝福を左右する決定力であると真剣に受けとめねばならない、聞き逃すことをゆるさないことを語っています。

このアモスの「終わりの日」(主の日)に関する預言は、新約聖書の光に照らして読む時、大きな希望と慰めに満ちた最後の言葉として、わたしたちの前に置かれています。「独り子を亡くした」人間の親の希望なき深い悲しみは、独り子を十字架上で人の罪を贖うために死なせる神の、わたしたちへの深い愛と同時に、父としての深い悲しみを明らかにしてくれています。神はこの悲しみを、自らのこととして引き受けられ、わたしたちがこの十字架を見て悔い改めて、神の恵みとその命の中を真に生きるよう「苦悩に満ちた日」を堪え忍ばれておられます。この神の忍耐の中で、私たちが悔い改めの信仰へと導かれるのです。十字架は、その最後の悔い改めの機会として、わたしたちに差し出されている恵みです。しかし、この恵みの言葉にも聞かない者には、いよいよその望みがないことが決定的に告げられます。

11-12節は、それを決定的に明らかにしています。

主の恵みの言葉を拒む者に下される主の審判は、飢饉です。それは、普通の飢饉よりも酷く、水の渇きよりももっと我慢の出来ないものです。神の言葉への飢えであり、渇きです。

「海から海」は、地中海からペルシャ湾を指します。「北から東」は、地の果てから日の出るところまでを指します。言い換えれば、人々が古代近東の世界をあまねく行き巡って主の言葉を捜し求めても、主の言葉はどこにも見出せなくなるという悲惨がここには語られています。

主イエスは、荒野の試練において、人はパンのみに生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によっていきると答え、悪魔の誘惑を退けられました(マタイ4:4)。主イエスのこの言葉は、神の言葉こそが人間の生きる根源になければならないことを明らかにしています。生命とそれを支える泉との結合が破られるところでは、神が沈黙するか、あるいは人間が神の言葉を聞いて理解する能力が失われます。それは死を意味しています。神の審きは単に外的な破局という形で起きるものではありません。真の悔い改めのない御言葉への外的探求は、内的な自己探求の道を閉ざします。そこであらわされる神への問い掛けは応答のないものとなります。祈りは対話のない祈りとなります。それは外的な不幸以上に、絶望的な内的審きであります。人間が最後を迎えるに当たって、このような虚無に捉えられるのは、おろそかにされた真の神との生の交わりの欠如の必然的な結果です。それは、神の言葉と業とを把握する霊的生命を失った誤った宗教性の結果です。

新約聖書は、ある金持ちとラザロの譬によって、この警告に答えています(ルカ16:19-31)。生きていることを赦されている今が、御言葉を聞くことのできる最初で最後のチャンスであることを覚え、御言葉を御言葉としてひれ伏して聞き従うことの大切さを、主はアモスを通して語っておられます。

旧約聖書講解